巴ヶ淵
長野県中山道宮ノ越宿の近くには、木曾義仲ゆかりの旗挙八幡宮神社があります。
今から約800年前、平家打倒のため、義仲がこの地から挙兵したので、以後この名で呼ばれるようになったそうです。
このあたりは、義仲が幼少時代をすごした旧木曽郡日義村であり、村の名前は、義仲が京に上り「朝日将軍」と呼ばれたことから、2文字を取って命名されたものです。
義仲の愛妾として有名な巴御前の名をつけた淵が、国道19号線から少し入ったところにあります。
巴橋の上から見る淵は、ちょうど木曽川の流れが方向を変える場所で、深くえぐられ濃い青色の水が渦を巻きながら流れる様子は、周囲の緑と溶けあって、とても美しい景観を作り出しています。
巴御前はここで水浴をし、泳いでは武技を練ったといわれています。
巴御前は、
「色白く髪長く、容顔まことに優れたり。強弓精兵、一人当千の兵者(つわもの)なり」
と、平家物語に記されるように、容姿端麗、向かうところ敵無しの女武者と伝えられています。
最後は、義仲が宇治川の戦いで敗れ、別れた後東国へ向かい、行方知れずとなったとされていますが、一説では、再びこの地に帰住したといわれています。
現地の説明板によれば、この淵に住む竜神が、義仲の養父の娘、巴御前に姿を変えて、義仲の生涯を守り続けたと言い伝えられているそうですが、巴御前があまりに美しく強かったので、当時の人々は、竜神の化身と信じていたということでしょう。
巴橋のかたわらには、『巴ヶ淵』と記した大きな石碑が建てられております。
その石碑には、よく見ると
と芭蕉の弟子、許六の句が刻まれています。
俳人芭蕉は、義仲の生き様に傾倒し、生前から義仲の隣に葬って欲しいと願っていたそうです。
その想いが叶い、現在滋賀県大津市にある義仲寺に眠るそうですが、師の気持ちを汲んで許六がこの巴ヶ淵で詠んだ句なのでしょう。
ちなみに“山吹”は、義仲のもう一人の側室の名前だそうです。