犬山市

犬山城

犬山城
犬山城

 犬山城は天文6年(1537年)織田信長の叔父、織田信康によって築城されました。
 その立地が中山道と木曾街道に通じ、交易、経済の要衝として戦国時代は攻防の要となり、城主がめまぐるしく変わりました。築城から江戸時代に入るまでの80年間に実に15人が城主となっております。
 天正10年(1582年)本能寺の変で織田信長が倒れて後継者争いで世の中が乱れ、天正12年、(1584年)秀吉対徳川家康・織田信長の次男信雄(のぶかつ)とのあいだで「小牧・長久手の戦い」が始まりました。

対岸より
対岸より

 犬山城に陣を構えた秀吉と小牧山城に陣取った家康がにらみ合ったことはよく知られております。結局両者の間で和議が成立し、犬山城は織田信雄に返還されました。
 江戸時代に入り、元和3年(1617年)尾張徳川家の重臣、成瀬正成が犬山城を拝領、このとき改良が加えられて現在の天守の姿ができたといわれます。
 以後幕末まで成瀬家が城主を務めましたが明治4年(1871年)廃藩置県で愛知県の所有となり、天守以外のほとんどの建物が取り壊されました。

天守閣
天守閣より上流を望む

 その後濃尾大地震により天守が半壊するという大きな被害にあいました。このため明治28年(1895年)修理を条件として県から旧藩主の成瀬家に譲与され、成瀬家と犬山町民が義援金を募り無事修復されました。
 昭和10年、国宝に指定され全国唯一の個人所有の城として保存されてきましたが、平成16年(2004年)「財団法人犬山城白帝文庫」の所有となって現在に至っています。(以上国宝犬山城のホームページから抜粋)

犬山城階段
城内の階段

 犬山城は木曽川のほとりの高さ90メートルほどの山の上に建てられております。天守閣(4階)は四方が回廊となっており、木曽御嶽山、濃尾平野、伊吹山、岐阜城、小牧山城、名古屋城などを望む360度の眺望が楽しめます。
 犬山城の魅力は天守が現存する日本最古のものであり、470年以上の歴史を刻み込んだ「本物」であるということです。城内の木製の階段は急で一段一段が高く、降りるときはほとんど垂直に感じます。薄暗い城中でこの階段を上り下りした当時の人達の思いは?とか、天守閣からの絶景を城主たちはどのように楽しんだろうか?などと想像すると、武将達が生きた空間を体感でき、戦国時代のロマンに思いを馳せることができます。

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犬山城下

城下町
城下町

 犬山城大手門から延びる本町通りは城下町を偲ばせる歴史的建造物が保存整備して残されています。
 一時は再開発により道を広げ商店街を新しく造ることが検討されたようですが国宝犬山城の魅力を活かして 江戸時代の風情のある町作りをすることとなり、6年ほど前から市も一部負担して休業した店舗を改修して貸店舗として活用したり、電線を地中化するなどして町並みを整備し、今では観光客で賑わう人気スポットとなっています。
 その中で旧磯部家住宅は平成17年、文化財保護法に基づく国の登録有形文化財に指定され、城下町の景観整備の先導的な役割を果たしています。

磯部家
磯部家

 磯部家は江戸時代から呉服商を営んでいた商家で太平洋戦後は生活の本拠は他に移り、建物は商品倉庫となっていました。この用地を犬山市が購入し、建物は寄贈を受けて保存修理工事をおこなったものです。敷地は間口が6.8メートル、奥行き約58メートルといわゆる鰻の寝床ですが、これは江戸時代の税金が間口の広さで決められていたため、したたかな商人はこのような造りにしたとのことです。通りに面した主屋は屋根が緩やかにふくらみのある珍しい構造になっています。これは起り屋根(ムクリヤネ)といって犬山市内で現存しているのはここ一軒のみだそうです。

城下の街並
城下の街並

 現在は本町通りが約700メートルにわたって整備されていますが、未完成の部分もあり、今後、周辺地区も含めて城下町の景観を保つ努力をするとのことです。
 取材に訪れたのはちょうど4月の第1土、日曜日におこなわれる針綱神社の犬山祭りの直前で、町の中のあちこちに車山(やま)が準備され覆いをかけた状態で置かれていました。今年(2010年)で第376回という伝統あるお祭りで、桜の花の下、絢爛豪華な13台の車山がからくり人形を奉納するとのことでした。

地元FM局
地元FM局

 犬山市には今回紹介した犬山城とその城下町の他に多くの観光資源があります。国宝茶室如庵、博物館明治村、日本モンキーパーク、などの見所に加え、木曽川鵜飼い、日本ライン下りなども体験できます。犬山温泉もあり、大変魅力的なまちです。
 また、犬山市には名古屋市水道の木曽川からの取水口が設置されています。大正3年(1914年)犬山城の麓に建設されましたがその後取水量の増加とともに取水位の低下に対処するため昭和4年、約1400メートル上流に移されています。
 木曽川の水はこの取水口から名古屋市の鍋屋上野浄水場まで約25キロメートルを導水トンネルとパイプで運ばれております。

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金明水・銀明水

愛宕神社
愛宕神社

 犬山市役所の西、旧国道41号線を挟んだ向かい側に「愛宕神社」という小さな社があります。かってここに「木ノ下城」というお城が建っていました。
 「木ノ下城」は文明元年(1469年)に築かれたものです。当時は戦国時代が始まろうとしていた頃でした。美濃の土岐成頼が尾張に攻め入ろうとうかがっていたので、その守りに織田広近が築城したものです。東西200m、南北350mの平城でした。その後70年間、代々織田氏が居城しました。しかし、6代織田信康は城の守りをもっと堅固なものにしようと「犬山城」を築き「木ノ下城」は廃城になりました。そのあとには二つの井戸が残されました。

金明水
金明水

 この井戸は「金明水」、「銀明水」と呼ばれ、こんな伝説が伝わっています。
 暑い日射しが照りつけ、日照りの続くある日のこと、村人が井戸のそばを通りかかった時白い蛇を見かけました。目を凝らして見るとその白蛇は雨乞いをしているのでした。しばらくすると田畑をうるおす久しぶりの雨。早速村人達にその話をし、村中そのことで大騒ぎになりました。「白竜様がおられるから、この井戸はきれいで涸れたことがないのだろう」と噂し、村中でこの井戸をずっと大切にしてきました。

木ノ下城標柱
木ノ下城標柱

 城下町の風情が残る本町通りを南へ歩き、本町の信号交差点を東へ、犬山駅へ向かって緩やかな下り坂を下りていきます。旧41号線の手前の細い道を南におれると愛宕神社がありました。境内で遊んでいる子供達の声が響いている、昔からどこにでもあるような神社でした。
 本殿の横に「金明水」と彫り込んだ石枠で囲んだ井戸があり、金網のすき間からのぞいてみると水面に空が映っていました。伝説のようにこの井戸は涸れたことがないのでしょう。
 案内看板には、100mほど西南の大榎の下に「銀明水」があると書いてあったので探してみましたが見つけることは出来ませんでした。近所の人にもたずねてみましたが、名前を聞いたことはあるが見たことはないという返事でした。


銀明水
銀明水

 そこで過日「銀明水」を探して再度犬山を訪れました。
 「銀明水」は、愛宕神社から600mほど北方、余坂の交差点近くにある国の重要文化財「奥村邸」(現在はフレンチ料理店「なり田」)の庭先にありました。かって織田信長が飲んだこともあると伝えられる古い歴史のあるこの銘水は、今なお現役で、ポンプでくみ上げられ料理店で使われているとのことでした。


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