上松町
長野県木曽郡上松町はほぼ中央に木曽川が流れ、東端には中央アルプス最高峰の木曽駒ヶ岳がそびえる自然にめぐまれたまちです。
江戸時代は中山道の宿場まちでさかえ、今でも寝覚の床、赤沢自然休養林などの景勝を求めて観光客が訪れています。
2004年9月26日に周辺市町村(木曽福島町、木祖村、日義村、開田村、王滝村、三岳村)との合併の是非を問う住民投票を実施し反対多数の結果合併を見送って上松町の名前が存続しております。
20013年5月上旬にこれらの景勝地を訪れ、水にまつわる伝説を取材しました。
寝覚の床
|
木曽路の景勝地として知られる寝覚の床は巨大な花崗岩が木曽川の激流に刻まれてできた壮大な岩の芸術です。方状節理の垂直に切り立った高さ5~6メートルはあろうかという荒々しい白い岩々、その間を蛇行するエメラルドグリーンの木曽川の流れそして周囲の緑の林の絶妙な色彩が、訪れた人の心をとりこにします。
|
古くから中山道を訪れた文人・歌人などの記録に残っており、大正3年には国の名勝史跡天然記念物に指定されております。
この全景は国道19号線沿いの臨川寺から見ることができますが、急な坂道を下りて河原に立って見ると岩々の迫力に圧倒されます。
また中央線の列車の車窓からも全景を見ることができます。現在では道路が整備されわれわれもあまり利用する機会のない中央線ですが、数十年前は登山、スキーによく利用しました。その頃は寝覚の床を通過する際に列車が徐行運転をして車掌が車内アナウンスし、皆が窓辺に駆け寄って眺めたものでした。
ここには浦島太郎の伝説が伝えられています。寝覚の床入口にある臨川寺に浦島太郎の使用した釣りざおや竜宮から授かったという弁財天の像が残されています。以下に浦島太郎の伝説について臨川寺のパンフレットから転記します。
|
『こんな山の中に、浦島太郎の伝説があるなんて、ちょっとおかしいことであるが、浦島太郎が龍宮へ行ったという話は、やはり海岸のことで、今の京都の天の橋立である。この海岸で亀を助けてやり、その亀につれられて、龍宮へいったのであるが龍宮での話や、龍宮から帰ってくるまでは、おとぎ話にあるとおりである。
|
ところが帰ってみると、親、兄弟はもちろん、親族隣人誰一人として知っている人はなく、我が家も無いので、そこに住むことができず、昔のことで何処をどう通ったともなく、この山の中にさまよいこんで来た。この木曽路の風景に淋しい独りをなぐさめられながら、好きな釣りをしたり、或は村人に珍しい龍宮の話をしたりして暮らして居ったところ、或る日のこと、フッと思いついたように、土産にもらってきた玉手箱をあけて見たらば、いっぺんに300歳のおじいさんになってしまい、ビックリして眼が覚めた。
|
眼をさましたというのでここを寝覚という。ところで、ただでさえ変ったこわい人だと思っていた村人は、この有様に驚いて近寄らないようになってしまったので、ここに住むことも出来なくなり、その行方を消してしまったのである。その跡を見ると龍宮から授かってきた弁財天の尊像や遺品があったので、これを小祠に納め寺を建ててその菩提をとむらったという。約千二百年前のことである。今の寝覚山臨川寺がその始まりである。』
浦島太郎の伝説は日本中で知らない人がいないほど有名な話ですが、寝覚の床で老人になったというお話はほとんど知られていないと思います。
臨川寺の境内には龍宮から持ち帰ったという弁財天を祀った弁財天社や浦島太郎の使っていた釣り竿等を展示した宝物館、自分の姿を映して見た姿見の池などがあります。また、寺から岩伝いに渡った寝覚の床の林の中には浦島堂が建立され、浦島大明神の位牌が安置されています。
宝物館は昔の生活用品、古道具など様々な遺物が展示された館内の一番奥に立派な木箱に納まった竹の奇妙な形の釣り竿が展示され、伝説の浦島太郎が現実味を帯びて感じられる楽しい空間です。釣り竿は必見です。
「たせや」の蕎麦
木曽路と言えば蕎麦ですが江戸時代には寝覚の床入口には中山道沿いに越前屋と田瀬屋の2軒の立場茶屋が並んであり、これらの茶屋で大名らが休息をとりました。ここのそばは浦島太郎にあやかって寿命そばと呼ばれていたそうです。後に(昭和41年)越前屋は国道19号沿いに店を移し、田瀬屋は一度廃業した後、民宿「たせや」を再開して今に至っております。
|
我々も取材時にはそばを求めて名の知られている越前屋を目指しましたがあいにく木曜日の定休日でどこか他にはないかと臨川寺の受付の女性に尋ねると「たせや」を紹介されました。
国道沿いの越前屋は今風の店構えでよく目につきますが、「たせや」は国道19号から少し坂を上がった旧道沿いにあるため目立ちません。しかし建物が昔のままの風格のある立派な建築で店内も改装はされてはいますが往時の雰囲気がそのまま感じられるようでとても感動的でした。せいろそばを注文しましたが、付き出しにたけのこ、うど、こごみなど季節の山菜をいっぱいだして頂き、特に「うるいば」の酢味噌和えは珍しく、とても美味しかったです。そばも色の黒い十割そばで木曽路の味を堪能しました。参勤交代の諸大名が必ず休息したといわれるこの店で、我々もおもてなしの心と安らぎを感じる時間を過ごせました。お勧めのお店です。
|
【参考】
1、立場(たてば):江戸時代、街道などで人夫が駕籠などをとめて休息するところ
2、越前屋については北川歌麿が当時の店内の様子を描いており、十返舎一九が「そば白くやくみは青く入れものは赤いせいろに黄なるくろもじ」と詠んでおります。
3、太田蜀山人は「蕎麦切りと木曽路の旅は山に坂、兎角からみであがるがよい」とうたい、「空身」と「辛味大根」、「上がる」と「食べる」を引っかけた洒落をいっています。
4、「たせや」のおかみによると和宮も立ち寄ったとのことです。和宮は幕末の動乱期に公武合体のため政略結婚させられた仁孝天皇の第8皇女。将軍家茂に降嫁するため1861年中山道を江戸へ。
赤沢自然休養林
赤沢自然休養林は樹齢300年を超える木曽ヒノキの自然林で森林浴発祥の地となっております。
1982年(昭和57年)開園し、林の中に散策コースが整備され、渓流、ひのきの巨木、木曽駒ヶ岳の眺望を楽しむなど8ルートを手軽に歩けるようになっています。
大正時代から昭和50年までに木材搬出用に利用された森林鉄道が今は自然休養林の観光の目玉として観光客を運んでいます。
|
この散策コースに姫宮コースがあり、赤沢自然休養林の中心地から3.5キロほど渓流を遡ったところに「姫淵」という美しい淵と「姫宮」という祠があります。ここにはあるお姫様のかなしい伝説が語り伝えられています。
『今から800年ほど昔、平安末期の安徳天皇の御代に平氏と源氏が争っていたころのことです。
宇治の戦いに出陣して敗れ、落ちのびた源氏の武将、高倉宮以仁王(もちひとおう)の王女、姫宮はいくら待っても帰らぬ父を探し求めて京の都からはるばる木曽路へと旅をつづけてきました。折からの木曽路は新緑につつまれた田植えのころで、お姫様は木曽川のほとりを杖にすがりながら山を渡る風にも、ふと鳴き出す山鳩の声にも追っ手ではあるまいかとおびえて歩いていました。
|
島という部落にたどりついたところで、追っ手に見つかりそうになってしまったお姫様はあたり一面に生い茂る麻畑に身を隠そうとしましたが、村人たちは後難をおそれて隠してはくれませんでした。しかたなく痛む足を引きずりながら最中という部落まで逃げのびたお姫様は、こんどは親切な村人達に麻畑の中に隠してもらい、追っ手をまくことができました。追っ手が去るとお姫様は村人に厚くお礼をのべて、小川沿いの山道を西へ急ぎました。
高倉の峠を越える頃には夕闇も迫り道がしだいに細くなり、とうとう途絶えてしまいやっと谷川の淵の傍らにたどり着きました。そのとき、峠のほうから追っ手の声や馬の蹄の音が聞こえてきました。逃れるすべがないと悟ったお姫様はせめてもの今生の思い出にと逃げてくる途中で見た田植え風景を思い出し、付近に生えている草を手にとって淵の岩の上で田植え唄を歌いながら、田植えのまねをはじめました。そしてその美しい声のこだまがまだ消えぬうちに清らかな淵に身を投げてしまいました。
その後この淵は「姫淵」と呼ばれるようになり、村人がこの淵のほとりに祠を建てて姫の霊を祀りました。また姫をかくまわなかった島の部落では、その後麻が育たなくなったということです。』
今でも姫宮では毎年10月15日に山仕事の安全を祈願する祭礼がおこなわれています。