木曽川物語(連載)

1、木曽川の大むかし

2、木曽川に挑む

3、木曽川の利水(農業用水と電力発電のあつれき)  

4、水秩序の安定化に向けて 

5、木曽川と稲沢

 全国には読み方は異なりますが「国府」いう地名は所々にあるようです。これは、律令制によって、国衙(こくが、国の役所)が置かれた所に必ずあった国府宮神社の名残です。国衙に赴任した国司は、その国の人々を災害や疫病から守り、その国が繁栄するよう、一ノ宮、二ノ宮などの神社を祈祷して巡回する役目があったようですが、昔のことですから簡単に巡回することは出来なかったのです。

稲沢市地図
稲沢市地図

 そこで国衙の近くにその国の総社としての国府宮を造り、国司がその宮の祭祀を執り行うことで、国中の神社で祈祷したことになるとして造ったものです。
 現在の稲沢市に国府宮神社がありますが、これはその近くに国衙があったことを意味します。現在は国衙跡の石碑のみが稲沢市松下にあり、そこに京都から国司がおくられて行政をつかさどっていたのです。


国府宮神社
国府宮神社

 また、国府宮駅側の線路沿いには、尾張学校院址の石碑もありますが、ここでは、国の役人となる人の教育をしていたようです。さらに、約4km南の稲沢市矢合町中椎の木には、尾張国の国分寺がたてられ、国分尼寺は法花町の法華寺がその跡ともいわれております。
 このように見ますと、稲沢市付近は、奈良時代には尾張の国の政治や文化の中心地だったようです。

国衙跡の石碑
国衙跡の石碑

 国衙をはじめ多くの建築物を建設するためには相当の資材が必要となり、その運搬が容易であるところが選ばれたはずです。
 当時の木曽川は、犬山から墨俣の方に西に向って流れており、長良川にぶつかって一本の川として流下しておりました。そして、犬山から下流にかけて尾張平野に支流が7、8本出ており、木曾七流(八流)と呼ばれていました。

尾張学校院址の石碑
尾張学校院址の石碑

 このうち、三の枝と呼ばれる川が、草井あたりから尾張平野に出て、稲沢付近を通過しております。古い地図から川の大きさは判別できませんが、木曽川上流から大きな木材や石材を運んだと考えられますので、比較的大きな河川だったと思われ、稲沢市下津(おりづ)あたりに港が有ったとも考えられております。
 また、瓦は発掘の結果、名古屋市昭和区の若宮瓦窯跡の製品と分っておりますので、東山道と那古野方面を結ぶ現在の美濃街道もすでに、この付近を通っていたものと思われます。


尾張国の国分寺跡
尾張国の国分寺跡

 聖武天皇が741年、国分寺・国分尼寺建立の詔をだして、国分寺の建立が始まると尾張の国の百姓は、何百人、いや何千人も動員され、持てる力の限り働かされ、土を均し、上流から川で運ばれた大きな石や材木で役所・寺院・学校などを建築していったのでしょう。 国分寺の発掘調査によると、金堂、講堂、南大門が一直線に並び、塔を回廊の東側に置く伽藍配置が明らかになっております。


現在の国分寺
現在の国分寺

 約二町四方の寺域の境には土塁や堀を巡らし、そのほか、鐘楼、経蔵、僧房など立ち並び、当時としては目を奪うばかりの出来栄えだったといわれています。
 国衙や国分尼寺はどの程度の規模であったか解りませんが、当時としては相当の大きさであったはずです。775年、尾張地方を暴風雨が襲いました。溢れた水は田畑を流し尾張国の中島、葉栗、海部の三郡を水浸しにしました。


法華寺
法華寺

 国分寺や国分尼寺は、周囲を堀で巡らし、土塁を積み上げて造られていたと言われており、それまで何度も起こった大水でも水害にあわなかったのですが、この時の暴風雨で跡形もなくなってしまいました。現在残っている礎石の高さを、農業用水路の水位と比較してみても決して低いところに造られていたとは考えられません。それほど暴風雨も激しく、近くを流れる三の枝も大きい川であったのではないでしょうか。


木曾七流
木曾七流

 その後、復旧されたのでしょう、884年には焼失したとの記録があり、国はこの地に国分寺は適さないと思ったのでしょうか、国分寺の役目を愛知郡の願興寺(名古屋市中区)に移す勅令を出したため稲沢には国分寺はなくなりました。
 1001年になると歌人であり、官人でもあった有名な大江匡衡が尾張守となり、万葉歌人として知られている妻の赤染衛門とともに尾張の国衙に赴任してきまた。
 当時の尾張平野は木曽川の氾濫原であり、農地も限られた地域で行なわれていたようです。赴任してきた大江匡衡は、水害と旱魃を繰り返すこの地域の農業を嘆き、大江用水を造ったといわれております。


赤染衛門歌碑
赤染衛門歌碑

 木曽川の水量の影響を直接うける三の枝を改良して用水路を造ったかどうかは定かではありませんが、水害や旱魃の際に調節できるような用水路に改良したのでしょう。農民は大江匡衡を神様のように崇めていたようです。 時代は下り、室町時代になると国衙を守護していた守護職が権力を握るようになりますが、その守護所は下津にありました。依然としてこの地区が政治の中心地だったのです。 その後、応仁の乱に巻き込まれ、この守護所が焼失しましたので、守護所の別郭が築かれていた清洲に移っていったようです。


下津城址碑
下津城址碑

 1608年には、家康は犬山から弥富まで50kmにわたって堅固な御囲堤を造り、木曽川からの流水を遮断してしまいました。そして、必要な農業用水のみを取水する施設を造り、濃尾平野は農業用水路と排水路のみにしてしまったのです。
 河川を舟運に利用することはあまり重要なことではなくなったのでしょうか。それ以後、米が貨幣の役割をし、経済を左右していた時代には米を生産する尾張平野は平凡な農耕地であり続けました。 御囲堤は、家康が江戸の防衛の一環として造ったともいわれておりますが、尾張平野の真ん中に、さらにもう一本、江戸の防衛や舟運のために木曽川の支流を残すとすれば、おそらく三の枝の筋が河川として選ばれ、濃尾平野の真ん中に大河川が残ったことでしょう。 そうすれば、稲沢付近は依然として尾張地方の中心都市として発展していたものと思われます。

おわり

(栗田 資夫)

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