木曽川物語(連載)

1、木曽川の大むかし

 今から1万5千年位前の洪積世の終わり、つまり旧石器時代から開田高原などの木曽川の上流流域に人が住み始めたのではないかと言われております。
 その頃の犬山や岐阜の下流域は現在の木曽川、長良川、揖斐川の氾濫原であったと考えられております。
 雨が降ると上流から荒れ狂った土石流がながれ氾濫して、濃尾平野を形作っていました。
 その後、増加する人々の食料も狩猟だけの山地では十分確保でないため、洪水の危険と戦いながらも、濃尾平野の比較的高い場所に住むところを求めて山をおりてきたものと思われます。
 近年、濃尾平野には3000年位前の魚や貝を採って生活し始めた集落跡や、縄文土器、魚を採った簗場のような跡なども発見されております。
 BC300年頃、北九州に稲作が日本に伝えられてから、やがてこの地方にも広がってきましたが、大規模な水田はなく、洪水と戦いながら川の近くで細々と稲作を行ってきたようです。弥生時代中期になると、青銅器や鉄器の伝来で農具などが急速に発達して、稲作も集団で行なわれるようになりました。 このため、次第に貧富の差もつくようになり、尾張氏、葉栗氏、丹羽氏などのような豪族も出てきたようです。そして、大和朝廷の勢力が拡大して、これらを統一し国家として成立していったものと思われます。
 こうした時期も濃尾平野の中を流れる川は勝手気ままに流れ、河川は濃尾平野を網の目のように巡っていたように思われます。
 8世紀ごろ、尾張の政治文化の中心は、現在の稲沢市付近でした。ここには土塁や石垣で積み上げた場所に、国府や国分寺、国分尼寺などが建てられていました。しかし、775年の水害では、七堂伽藍も無残に破壊された記録から推察すると、大暴風雨には当時の堤防では支えきれなかったのか、地盤がまだ現在より相当低かったのではないかと思われます。


木曽川の河道変遷図

 木曽川は、8世紀ごろは鵜沼川と呼ばれ、9世紀ごろは広野川と呼ばれており、前渡のあたりから北西に、現在の木曽川より北を現在の境川の川筋で流れて長良川へ合流しておりました。そして、それより下流は美濃川または尾張川と呼ばれていました。
 現在の境川がこの痕跡であり、美濃と尾張の国境になっていて、尾張の国はもっと北西に広がっていたのです。
 また、犬山から下流にかけて、尾張平野に支流が7~8本でており、木曽七流(八流)と呼ばれていました。そして、農業も一部の地域で行なわれていましたが、多くは未開の原野だったようです。
 貞観年間(860年代)繰り返し起こった洪水により河道が変わり笠松を通過する線まで南下して長良川へ流れるようになりました。このため、尾張の国の葉栗郡60ヶ村、中島郡29ヶ村が美濃側にいきました。
 尾張側は暴れ者の木曽川が尾張の国に居座られては困ったものだと、貞観7年(865年)河道を元に戻すよう工事を京に陳情しましたが、なんともなりませんでした。そして、翌年河道を元に戻そうとする尾張側とそうはさせまいとする美濃側との間で、「広野川の争い」と呼ばれる武力衝突が勃発しました。
 当時の灌漑規模では洪水の恐れがある本流は必要でなくお互いに押し付けあっていたものと思われます。
 長保3年(1001年)、尾張の国司として赴任した大江匡衡が大江用水を開発するなど農業地域の整備も逐次行なわれていましたが、それは一部で多くはまだ原野のままでした。
 天正14年(1586年)の洪水で笠松からもう一本の川ができて、ほぼ現在の河道になり、長良川と別の川になってから木曽川と呼ばれるようになりました。このとき、尾張の国の海西郡25ヶ村が美濃側に行ってしまいました。
 このように濃尾平野に住みついた人々は木曽川の洪水に翻弄され、苦難の生活を送ってきたわけです。
しかし、人口も増加して次第に人々の力が大きくなると、次の時代には堤防を強化して川を押さえ込もうとしますが、色々と問題も起こってくるのです。

(栗田 資夫)

戻る

境川(昔の木曽川河道)の現況


上流部の三井池


中流域の岐阜市柳津町付近


長良川に合流

2、木曽川に挑む

3、木曽川の利水(農業用水と電力発電のあつれき)

4、水秩序の安定化に向けて

5、木曽川と稲沢  (2013年2月 掲載)

戻る