木曽川物語(連載)

1、木曽川の大むかし

2、木曽川に挑む

3、木曽川の利水(農業用水と電力発電のあつれき)  

4、水秩序の安定化に向けて 

5、木曽川と稲沢 

6、なぜ木曽川なのか

1 はじめに
 名古屋市に入庁し上下水道局へ配属されて3年、名古屋市の水道事業を学ぶに名古屋市は水不足による断水もなく、大都市ではあるが、わざわざ飲料水を買う必要もなく水道水はおいしい。市として自慢できる水道水だと思う。この豊かな恵みは、ひとえに豊かな水源である木曽川によるところが大きい。名古屋市には庄内川という一級河川が流れているのにも関わらず、水源は市域を離れた木曽川である。水質がよく豊かな大河川・木曽川を水源として潤沢な水の供給を受けてきたからこそ、安定した市民生活を送ることができ、都市としても発展を遂げてきた。年史等にも記されているが、この木曽川を水源としたことこそ、まさに後の100年に続く繁栄・発展の礎の一つなのではなかろうか。すなわちこれはものすごい「先見の明」である。
 なぜこのような先見の明を持ち得たのか。それを知りたいと考えた。
 その姿勢に、ひょっとしたら未来展望へのヒントがあるのかもしれないと思うと、どうしても知りたいと思った。
 一方、身近な名古屋水道関係の歴史文献の中では木曽川水源案の背景について詳しく述べられている部分が少なく、自分の目でさらに多くの文献に当たるなどの必要を感じ、今回のテーマとすることとした。
2 調査
 まず、名古屋市上水道布設までの経緯の概略を示す。
・明治26年 内務省衛生工事顧問 バルトン氏に給水工事の調査を依頼
・明治27年 バルトン氏による「名古屋市給水工事に関する意見書」の提出
→当時の財源に鑑み、時期尚早の名の下に見送られる
水道布設の社会的必要が増大
・明治35年 愛知県技師 上田敏郎氏に嘱託し調査開始
・明治36年 上田技師による上水道布設調査の「報告書」提出
→日露戦争により審議中断
戦争終了後、審議継続。調査委員会による先進都市視察
・明治39年 市議会において原案どおり可決
水道布設案可決までの経緯の中で主な要確認事項を示すと次の①~④である。
(1) バルトン氏とは
(2) 上田技師とは
(3) 上田案が成立したのはなぜか
(4) 木曽川利用について歴史的背景や水事情はどうだったのか
 私は当初、水道布設及び水源決定の要因として、一般に「社会的要請」「人口増加」「供給水量」等が挙げられるはずであると考えた。この考えを軸とし①~④に従い調 査・考察を行った。
(1)バルトン氏とは
 バルトン(William Kinnimond Burton スコットランド 1856-1899)氏は明治20年、明治政府の招聘により来日し、帝国大学の衛生工学の教授に就任した。内務省の衛生顧問技師として、東京都を始め各都市において水道の布設に係る調査を行っている。明治26年、名古屋市の志水市長は給水工事の調査をバルトン氏に依頼し、同27年「名古屋市給水工事に関する意見書」を同氏は提出することになる。
 その案では市の将来予定人口を27万人と見積もり、その水源を入鹿池とし、高台にあるこの池より自然流下をもって名古屋市へ給水するという計画が述べられた。その工事費用としては175万円を見込んでおり、当時の市の財政(明治27年、市の歳入額は10万5646円)においてはとても工面できるような金額ではなかったため、この計画は時期尚早として見送られることとなる。
 名古屋市に限らず他都市においても近代水道の布設は、当時流行を見せた「コレラ」等、人口の増加ともあいまって衛生面の改善の必要が高まったことが大きな要因であると伝えられている。
(2)上田技師とは
 1864年(元治元年)生まれ(没年1912)、明治19年に東京帝国大学工科大学土木工学科卒業の上田敏郎氏は、静岡県技師を経て明治32年に愛知県技師となる。明治35年、青山朗名古屋市長により名古屋市の嘱託技師として上水道布設にかかる調査を行うこととなる。
同36年に提出された計画案は、先のバルトン氏による入鹿池水源案を廃し、木曽川を水源とし、丹羽郡犬山町(現犬山市)から木曽川の水を引用し、ポンプで愛知郡東山村(現千種区田代町)の山頂に圧送し市内へ配水するというものであった。
 同調査報告を受け、青山市長は明治36年12月、上水道布設の実施について市議会に諮ったが、明治37年に勃発した日露戦争の影響により審議は一時頓挫した。戦争終了後、審議は再開され、その間机上の審議のみでは不十分とし、調査委員は市参事会員と共に二班(東部視察員、西部視察員)に分かれ、先進他都市を視察した。上田技師も西部視察員として、大阪・神戸・岡山・広島・下関の各都市を回った。そして明治39年6月6日に原案どおり可決されるに至ったのである。その工費は明治40年から5ヵ年計画で592万円(ちなみに明治39年の市の歳入額は101万5229円であった)となった。
(3)上田案成立の考察
 バルトン案が入鹿池を水源としたものであったのに対し、上田技師が提案し、可決の日の目を見たのは木曽川を水源とした案であった。その背景について次のとおり調査・考察した。
【人口の増加】
 バルトン氏が名古屋市の水道布設にかかる調査を行った明治26年時点で、名古屋市の人口は約19万人ほどであった。これを基にバルトン氏は名古屋市の将来予定人口を27万人程度と見積もり布設計画を立てた。水源とした入鹿池は、この人口までは安定した水供給をすることができると計算したのである。
 一方、明治35年に調査を開始した上田技師の時は、その時点で既にバルトン氏の見積もった予定人口を上回る約28万人となっている。市域の拡大も重なり、バルトン氏の見積もりを上回る人口成長をしていた。これでは入鹿池を水源としては市民すべての生活用水をまかなえない可能性が出てくるのである。
 これに対し上田案は名古屋市の将来予定人口を60万人と算定し、その市民すべての生活用水をまかなえるのは入鹿池ではなく木曽川だとしている。バルトン氏の想定した以上に名古屋市が人口増加し、その成長が続いているということが、木曽川を水源とする上田技師の案の一番考慮された点であろう。(表1参照)

表1

【衛生面】
 明治10年、横浜・長崎への外国船入港に伴い全国的に感染症「コレラ」の流行を見た。コレラ菌の感染により激しい下痢と嘔吐を引き起こすこの病気は、もともとインドの風土病であったという。
 明治政府のコレラに対する対策は避病院なる専門の隔離病院を設け、患者を隔離するということに加え汚染地域の交通を遮断し、人・生鮮食品等の移動を禁止するというような警察衛生と分類されるものであった。しかし、交通を遮断された人々は物価の高騰や魚介類の販売禁止などにより生活難に陥った。このため、このような措置を恐れるあまり民衆による防疫に当たる医師や患者などを襲う行為など社会的混乱を招き、コレラの予防策としてはあまり期待できるものではなかったようである。
 これに対し自治衛生という形で提案されるのが上下水道布設である。莫大な費用と時間を要することが大きなネックではあるが、コレラに関しての予防効果は絶大である。港湾があり外国との交易が盛んであったがゆえにコレラ蔓延が先行していた横浜が、日本で一番初めの近代水道布設都市になったのもうなずける。
 コレラ等の蔓延は多数の死者を出すことに加えて大きな社会不安を呼び、水道布設への大きな原動力となったであろう。
(4)歴史的背景、水事情
 1609年(慶長14年)、徳川家康の命を受けた伊那忠次により、木曽川左岸の犬山から弥富までの実に約46kmに及ぶ「御囲堤」(おかこいづつみ)なる堤防が完成した。豊臣家の侵攻から西国に対する拠点である尾張藩を守るという軍事目的がそもそもであるが、これにより尾張側の耕地を暴れ川であった木曽川の洪水から守ることができるようになる。加えて、優良な木材を産出する木曽の山と、その木材を運材するための木曽川の水運権とは、ともに幕府からその支配権を尾張藩に与えられたという。尾張と木曽川という遠くのものと思えていた二つの存在が、慶長の時代には既に結びついていた。
 木曽川の治水を目的とした「御囲堤」はそれまでの利水関係も変化させた。分流河川が締め切られたため、新たに木曽川からの用水を設け周囲の農業の灌漑用に供することとなる。また1633年、高台であり荒野であった尾張平野北中部に農業用灌漑用水のための入鹿池が完成し、同地方の新田開発に貢献した。 その後も木曽川と尾張は木津用水、新木津用水など、農地にかかる用水を介して結びついている。

表2

 ひとしきり自分なりの考察をしてきたが、当時の社会的反響を確認したく新聞の記事を探していたところ、現在の中日新聞の前身の一つである新愛知新聞に掲載記事を見つけることができた。 明治36年12月9日掲載の第2面の上水調査報告(承前)に『名古屋市上水道布設線路略図』とともに上田技師が水源並びに取水・送水方法を検討した案が九つほど紹介されていたので、表2にまとめてみた。各案は工事の方法・工費・工事にかかる距離を算出してあり、それぞれを比べてみることができる。水道布設可否の大きな要因となるであろう工費については200万円を切っているのは(第五)(第八)案しかない。
 そして一番少ない(第八)案については庄内川の水量を「充分としたら」という仮定に基づいているが、『実際水量不足なれば実行し難きものとす。』としている。
 また上田報告の人口について触れている部分には、「バルトン氏は人口26万人を将来想定として調べていたが、バルトン調査から10年を経ずして既に市域の人口は28万人に到達している。先に調べた下水布設調査で現在の市域に入る人口を、外国の例との比較や東京・大阪あたりの実例から考えて46万人と想定して計画を立て、上水においては60万人までは差し支えないような計画を立てることとした」という内容が記載されていた。

新愛知新聞記事
新愛知新聞記事
名古屋市上水道布設線路略図
名古屋市上水道布設線路略図

 また、「水源をはるか遠くに求める上水は人口が1万人、2万人増えたからといって、そのたびに拡張工事をするのでは費用が莫大になってしまう。年平均1万人増えたとしても、30年は想定した人口60万人に到達しないのではないか」という予測のもと、30年後を見越した計画を立てたのである。
(※市の発展の速度はめざましく、実際に60万人に到達したのは18年後の大正10年であった。)
 水源をどこにするかということでもう一つ重要になってくるのは使用水量である。一人当たりの使用水量がはたしてどれくらい必要なものか、上田技師はこれについても言及している。「まず大阪・横浜あたりなどと比較しても東京が一番多く水を使うということで、東京の使用水量を基準とする。その水量は一人につき一日4立方尺=6斗1升7合(111.060 )。上田技師は自宅でも井水によって試し、一人平均3斗少しあれば一昼夜差し支えない」ということで、東京の使用量を見込んでおけば問題ないという計算をしている。
 上水布設の効果として、生活用水として使うばかりではなく、それ以外に防火用として効果を発揮するということも述べている。東京を実例に挙げ、水道布設前後では消失平均日数の値が4分の1にまで軽減していると紹介している。防火用として各町に防火線を置き、そこへ防火栓の設備をしておけば、ホースをつなぐことで市街給水のどこででも50尺以上の噴水をすることができるとし、防火上においても上水道布設が非常に大きな役割を担ってくれるということを強く説いている。 上田技師は「この上下水工事は車の両輪のごとく、どちらか一方だけを行うのであれば効果は薄く、離るべからざる事業である」として同時事業の必要性を強く説き、上下水道布設総工費を634万円と見積もり、その資金調達についても言及している。
 国庫補助金の額から市税の支出額、公債の募集・償還に至るまでを具体的に示してもいる。多額の工費を要する布設工事に対し、市会で説得するために様々な観点から説明をする上田技師に、改めて尊敬を覚えた次第である。スペシャリストだけでなくゼネラリスト的観点も必要であるということが理解された。
3 調査を終えて
 当初、上田技師による「報告書」の内容を詳細に知ることができなかったため、先に述べた私の「見込み」を軸に考察し関連文献により自分なりの疑問を解消していくことから調査を始めた。上下水道黎明期の偉人の業績の一端を学び、水利用における木曽川と名古屋のつながりを歴史的に学び、入鹿池・木曽川について調べた。市の発展と人口増加のこと、社会を脅かす疫病と自治衛生という観点から防疫対策としての上下水道布設事業を学んだ。それらの調査を進めるにつれ「なぜ木曽川だったのか」と、やや突飛な?考えに思えていた木曽川水源案に納得がいくようになった。
 そして当時の新聞の掲載記事から上田報告の内容を知り、また上田報告を記した文献に出会い、木曽川水源案が様々な観点から最良であったということを、自分の「納得」とともに確認できた。
 この案の作成を可能にしたのは緻密な調査・計画・予測・状況判断である。この姿勢というのは特別なことだろうか。いや、それは現在でも当たり前のことである。特別なことは何もなく、広い視野を持ちこうした当たり前の手順・業務をどれだけ遺漏なく迅速・確実に行っていくかが仕事の質と成否を決定する、ということであろう。 今にして思う「先見の明」は、すごいひらめきや発想などによるものではなく、困難な時代に叡智と展望を持って着実に「当たり前」の業務をこなし重大な仕事にあたられた結果であり、先人の足跡とその偉業を改めて実感できた。こうした調査を経て、上下水道誕生の背景とその重さを自分なりに実感し、そこから営々と続いている上下水道事業に思いを馳せると、ごくごく身近なことではあるが、自分が取り組む上下水道局の業務において、これまで以上にコスト意識を持ってやっていきたいと考えるようになった。給水収益が落ち込み、年度を追うごとに予算を削減せざるを得ない状況が避けられない昨今、どの部署においても高いコスト意識を持って仕事を進めなければならない。
 私は営業所勤務経験があり、料金督促業務も経験した。料金を払っていただくということの大切さを先輩職員の姿勢からも感じてきた。そして現在、予算を執行しながら研修を企画、運営する立場になり、お客さまからいただいた大切な上下水道料金を予算として仕事をしているという意識を持ち、これからの業務にあたらなければならないと再確認する良い機会となった。このようなコスト意識は全上下水道局職員が共有していかなければならないものである。
4 おわりに
 名古屋の水道は2年後に100周年を迎えることとなる。今回はその根幹とも言える水道布設案とその背景についての自分なりの調査・考察をすることにより、日々の業務における姿勢を学び取れる機会になったと思う。私たちの仕事の一つひとつ、その取り組み姿勢の一つひとつが、上下水道事業の今はもちろん、未来の形を決定していくことを実感した。
 そしてもう一つ、広いビジョンを持つ必要性である。自分が仕事をしていく上で、広くても漫然と名古屋市域のことだけを念頭に置いていたことが分かった。名古屋市域しか見ていなかったから、木曽川水源案が途方もないことと感じていたのだ。今後、どのような部署に就くかは分からないが、木曽川の流域交流という観点は職員として大切であると感じている。
 また、水道布設という一大事業の実施はすばらしい英断であったと思われるが、当時のことを記した文献からは、財政的な観点も含め時期尚早の反対運動や著名人からの反対陳情書提出があったりしたこともわかり、施策の推進という観点では学ぶものがあった。
 現在、私は総務部職員研修所研修総括係に所属し、担当業務の一つに「水源林保全体験研修」がある。これは研修であるが、木曽川の上下流交流の一環でもある。研修のねらいは“水循環、水源地域の役割や現状を考え、上下水道局が進める上下流交流のパートナーシップと水の総合的管理について理解を深める”というものである。もちろん、このために今回のテーマを選んだ訳ではないが、今回の取り組みを通じてこの研修は私にとって一層意味の深いものとなったことを申し添えたい。
~参考文献・情報等~
○なごや水物語-名古屋市長 杉戸清の描いた水都なごや(名古屋市上下水道局)
○名古屋市水道80年史、90年史(名古屋市上下水道局) ○名古屋市上下水道局HP
○バルトン関連活動(日本下水文化研究会HP) ○名古屋市水道誌(名古屋市役所)
○愛知用水史(愛知用水団・愛知県編纂) ○市会議案決裁綴(名古屋市市政資料館)
○名古屋の城下の水事情・近代上下水道の夜明け前・鍋屋上野浄水場の「銘板」(水問題研究所)
○入鹿池・木曽川・犬山頭首工ライン大橋・合瀬川・庄内川・木津用水・新木津用水(Wikipedia)
○農業土木の総合情報サイト-水土の礎-((社)農業農村整備情報総合センター)
○木曽川は語る-川と人の人間関係史-(木曽川文化研究会) ○尾張藩社会と木曽川(杉本精宏)
○名古屋市会史(名古屋市会事務局) ○新愛知((株)新愛知新聞社) ○名古屋市公式ウェブサイト
○内務省東京衛生試験所第5代所長後藤新平の時代-衛生制度の誕生-(国立医薬食品衛生研究所HP)

おわり

総務部職員研修所 濱嶋 寿美子
総務部職員研修所 五明田 拓也


この論文は、水問題研究所が主催する名古屋市上下水道局、緑政土木局職員論文募集の応募論文(平成24年度、第14回)で、優秀論文となったものです。

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