木曽川物語(連載)
1、木曽川の大むかし
2、木曽川に挑む
3、木曽川の利水(農業用水と電力発電のあつれき)
木曽川の水は、明治までは農業用水の利用のみで、渇水や河床の低下などで多少取水が困難になることもありましたが、取水口の移動や用水路の整備によって切り抜けてきました。
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明治39年、名古屋の財界は名古屋電力を設立し、木曽川の八百津に水路式の(9600kw.)木曽川発電所の建設に着手しました。
しかし、建設中のトラブルにより、大幅な建設費を要することになって、名古屋電力の財務体力を急速に低下させる原因となりました。その結果、明治43年に福沢桃介の経営する名古屋電灯会社に吸収され、明治44年に木曽川最初の水力発電所(現在の旧八百津発電所)がスタートし木曽川の水を電力に使用することが始まりました。
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その後も桃介は賤母、大桑、須原などの発電所を建設し、名古屋を中心とて発展した工業地帯に電力を供給しておりましたが、長距離送電が可能になり、電力再編成によって現在では木曽川の電力は関西方面に送電されるようになっております。
また、都市用水では大正3年(1914)に名古屋市水道が始めて木曽川の水を取水するようになり、木曽川の水の利用も次第に広がっていったのです。
また、それまでの発電所は水路式発電所で下流の取水にあまり影響を与えるものではありませんでした。
しかし、大正13年大井ダムが完成し、電力の需要に応じて発電するようになると、これまでの水秩序が壊されることになりました。
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電力は使用量の多い日中はダムから大量に水を流しますが、夜間にはほとんど流さないなど、河川の流量を無視して利用しましたので、農業用水や上水道のような一日平均して取水する下流の水の利用者は安定した取水が出来なくなりました。また、ダムの堰き止めによって土砂の流下もなくなり、河床は低下して取水が一層困難になったのです。
このため、電力発電側と農業用水側の対立は激しくなりました。農業用水側は電力会社から得た補償金や寄付金で取水施設を改良したり、取水口の位置を移転したりしましたが、根本的な解決にはなりませんでした。
名古屋市水道も昭和4年取水量の増加と共に取水位の低下に対処するため、取水位置を犬山城下から1400m上流に移しております。
電力会社は年々の交渉に耐えかねて、流量変動そのものを解消することなくしては根本的に問題を解決できないと認識するようになりました。
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このため、木曽川筋の大同電力と飛騨川筋の東邦電力で折半出資をして、愛岐電力を設立して、昭和14年木曽川と飛騨川の合流点に今渡ダムを建設しました。
このダムは逆調整池で、上流ダムの発電により河川の流量に変動が生じても今渡ダムで貯留して下流へは均等に放流しようとするものです。
当時、内務省は今渡ダム操作規定で「今渡ダムに流入する自然流量が毎秒100㎥以上の時は、上流ダムで貯留でき、毎秒100㎥以下の時は自然流量を均等放流する。」と定めようとしましたが、下流の農業団体は「木曽川を元の川に戻せ。」といって長年話し合いがつきませんでした。
昭和16年12月8日太平洋戦争の開戦の日に、内務省の名古屋土木調査所長で後に名古屋市助役になり100m道路を計画した田淵寿郎さんが農業団体の代表者を訪問し、時局を説いて一挙に解決した話は有名な話です。
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このように今渡ダムの建設によって今渡下流の河川流量は一応均等に流れるようになりましたが、ダムの建設により上流からの土砂の流下がないため年々河床が低下して下流へ波及していきました。
逆調整池の建設によって流量変動の問題が一応解決しても、河床低下の問題は解決できなかったのです。
この問題の根本的解決の方法は、河川の全面を締め切る取水堰を建設して水位を上げ、そこで総ての用水を取水して配分できるようにするいわゆる合口取水が濃尾平野の下流利水者の念願となっていったのです。
(栗田 資夫)