名古屋城下の水事情
寄稿者 : 栗田 資夫 |
今年は名古屋開府4百年を迎え、本丸御殿の再建を初め、多くの行事が計画されておりますが、その頃の名古屋城下の水事情は如何だったのでしょう。色々の文献や参考書から推察してみました。
那古野台地
慶長8年(1603)家康が征夷大将軍となり、江戸幕府が創立されました。そこで家康は、西方の勢力から江戸を守るため、慶長12年(1607)義直を尾張藩主として清洲城に入れるとともに、翌年には伊奈忠次に命じて、木曽川に犬山から河口まで47Kmにわたって御囲堤(おかこいつつみ)をつくり防御の体制作りをました。
しかし、家康は濃尾平野の真中の清洲城では、何となく心もとなく思っていたでしょう。
関が原から、濃尾平野に出て美濃街道を東に来ると、最初に出会う山は那古屋山です。那古屋山を持つ那古野の台地は海抜20メートル前後の丘陵地ですが、枇杷島辺りからみると、東から濃尾平野に突き出た舞台のように見えていたはずです。
この台地の西北端に城を造れば西の濃尾平野が一望できるのです。ここは城の適地であることは誰の目にも明らかです。
名古屋場内井戸位置図 |
すでに織田の時代にも信長が生れたと言う小規模な那古野城が現在の二の丸あたりにあり、若干の集落もあったようです。
適地であっても戦になって篭城した場合、最大の問題は生活に必要な水が豊富に得られるかと言うことです。城を造るからにはおそらく、その前に井戸を掘って水が得られるか如何かを調査し、水が豊富に出ることが解ったと思います。
那古野台地は東の猿投山から続く台地でそこに降った雨は地下に潜って西に傾く地層に沿って流れていました。
また、この台地の北側は崖がつづいておりましたが、そこからは水が滲み出ており、崖下では水が湧き出ている箇所が多くありました。
このため、台地の北側と西側は大半が湿地であり、池や沼も多くあったところです。
城は湿地帯に張り出してつくり、背後の台地には城下町を計画しましたが、山や谷があり城を築く前に、平坦な用地を造成することになりました。
札の辻記念碑 |
これには、加藤清正が、家康のご機嫌をとるため、肥後から人足をつれてきて、山を削りその土で谷を埋めて平地にしました。この時代から土地開発事業はあったのです。このため、「音に聞こえし那古野の山をふみやならした、肥後の衆」という歌がはやったそうです。
慶長12年(1610)には清洲越えといわれる名古屋への町全体の引越しがおこなわれ、名古屋の城下街の活動が始まりました。この年から数えて今年で四百年になるのです。
峠であった所は、現在の伝馬町通本町の交差点あたりですが、ここに、伝馬会所ができ、札の辻となり、飯田街道、美濃街道、善光寺街道(下街道)、稲置街道(上街道)、熱田道の起点となりました。
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紫川
紫川の流路 |
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本町通りを南に歩いていくと横三っ蔵通りを過ぎる辺りから緩やかな坂道となっていますが、昔は急な坂道で、坂を下ると石橋があり、熱田へと坂道が登っていました。この石橋の下は水の豊かな紫川が流れていたのです。
この紫川の源は、入江通を本町筋から少し東に入ったところにあった伝光院(現在は名東区)の近くの鳴瀬ヶ淵という淵で、いつも川浪が鳴り響いていたと言われています。流域は小さいのでおそらく地下から大量の湧水が溢れ流れていたのです。紫川は城下一番の水の豊富な河川だったようです。
名古屋の三名水
また、尾張名陽図会では当時の名古屋の三名水のとして亀尾志水、清寿院の柳下水、蒲焼町の扇風呂の井水が挙げられており、名古屋にも名水があったのです。
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亀尾志水は清志水とも言い、現在は清水交差点(国道41号線)の一筋西の道になりますが、お城から稲置街道に出て清水坂を下る途中の大曲の角の道端に亀尾志水が湧いておりました。
亀尾志水の名は、近くに通称、亀尾天神(七尾天神)があり、この縁起で名付けられたものではないでしょうか。
場所柄、外からの旅人は城下に入る前にこの清水で渇きを癒して、最後の坂を登って城下に入り、城下を出る旅人は名古屋の名残の水として喉を潤し旅立って行ったものと思います。
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また、この水で絵の具を溶くと金泥などは光り輝くといわれ、特別の水とも考えられていたようです。
さらに、この街道を下っていくと、船付にでますが、そこに大きな蓮池(現在の清水二、大杉二)があり、そこで城下の人たちは舟遊びをし、夏には花火も打ち上げられたようです。
清寿院の柳下水(りゅうかすい)は、清寿院の中門前にあり、院の供水として、また、将軍上洛の折には、その飲料水として用いられた名水と言われています。
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清寿院は富士山観音寺と言われたお寺でしたが、寛文7年に清寿院に改められ、明治5年に廃寺となりました。
清寿院の庭は那古野山古墳の前方部を壊して作られたもので、後円部は浪越山としてその一部に取り込まれたものですが、現在は那古野山公園として大須演芸場の東裏にあります。井戸は大須商店街のレストランの一隅に今も柳の木が側に植えられ残っておりますので、清寿院はかなり大きな院であったものと思われます。
蒲焼町の扇風呂の井水は、肌が綺麗になる水といわれており、芸妓に人気のある風呂屋だったようです。
蒲焼町は慶長の築城の時、諸国から城普請のため集まった人々を相手に商売する店が多く出来ましたが、蒲焼を売る店が多くあったところが蒲焼町と言われるようになり、現在の錦通り伊勢町交差点辺りになります。
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現在の坊が坂 | 現在の状況 |
その他、名鉄瀬戸線尼ヶ坂駅近くにある片山神社の裏辺りには、かねつけ志水、かや志水、いちょう志水、などの名水が湧き、善光寺街道には、現在は国道十九号線の下になりましたが、弘法の井と呼ばれる井戸もありました。また、御器所村の吹上など周辺の低地でも水が豊富に湧く地域だったのです。
こうした、ことからも築城当時は、水の使用については井戸水で何不自由なく生活できたのです。
御用水と巾下水道
清洲越えから50年を経た万治3年(1660)の1月、万治の大火といわれる大火事がありました。この時、井戸水を汲むなどして必死に消火活動をしたと思われますが、伊吹下ろしにあおられ二千戸の家が焼失したのです。
この機会に、城下町では防火帯として、広小路が設けられましたが、恐らく、街の発展とともに井戸の水位も下がっていたと思われ、お城でも堀の水が減少していました。
このため、寛文3年(1663)に尾張藩の二代目藩主光友が、御用人小瀬新右衛門と本田伊右衛門に命じて、御用水路と巾下水道を造らせました。
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御用水路は龍泉寺近くの川村で庄内川(勝川)から取水して、名古屋城まで水を引きお堀に注入するものです。
この御用水路は、明治時代になって黒川が開削されたとき、上流部で用排水路の付け替え、改修等が行なわれ全貌がはっきりしませんが、次のようであったと考えられております。
水路は庄内川に平行して造られ、東瀬古あたりで現在の古川につながれ、水は矢田川に注水されていました。そして、矢田川の水とともに北区辻町からお城まで御用水路が造られ流されていたのです。
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しかし、矢田川は流砂が多く御用水路によく堆積したため、延宝4年(1676)矢田川の下をくぐる水路が設けられ、庄内川のきれいな水のみを流すように改良されました。
お堀に流入した庄内川の水の余り水は、お堀の西南に造られた辰之口から堀川に越流させ、お堀の水位を一定に保つと共に、堀川の水源にもなっていました。
また、この余り水の一部は、巾下水道として堀川の西側の地域に配水されていました。
この地域では、地下水位の低下にともなって、井戸の水位が堀川の干満によって上下し、塩分を含むようになっていたのです。
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巾下水道は桧造りの大樋とこれから分岐した小樋と呼ばれる配水管で家々に配られ生活用水として利用されていました。確かではありませんが、家々の井戸に接続されていたものと思われます。
このように、当然、城下の井戸も、周辺の池や沼も長年の汲み上げで水位は低下し、低湿地では海水等の流入で水質も悪化していったと思われます。
文政5年(1822)に書かれた那古野府城志には桑名町では「井深三丈余水清し」と書かれており、井戸の深さが9メートルくらいに達していたようです。
何時の頃からか、自噴していた亀尾志水も井戸に変っていきました。また、蓮池も水量が少なくなったため埋め立てられ蓮池新田になり、稲置街道に家も立並ぶようになっていったのです。
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鳴瀬が渕も水量が減少し鳴り響かなくなったのでしょう。ここは成瀬様が馬を洗ったので、成瀬が渕というようになったと言われるようになりましたが、文政年間に書かれた尾張名陽図会で高力猿猴庵(種信)は「名所をかくあやまれるとぞ。残念、残念」と間違いを指摘しています。
中村に遊郭が移る前は、大須に遊郭がありました。朝には大勢の女性が洗う白粉で溝川は白くにごって小川に入り、紫川に流れていました。このため、この付近を白川と呼ぶようになったのですが、紫川は他からも家庭排水などが多く流入して、明治時代にはほとんど汚水でどぶ川になってしまいました。
紫川は明治の終わり頃まで残されていましたので、その頃まで白川公園の南辺りは大きな谷になっており、洲崎橋辺りで堀川に流入していました。現在では紫川も下水管になってしまいました。
近代を迎え明治時代の名古屋の水事情は決して恵まれていませんでしたが、近代水道を建設するにあたり、水質が良く、水の豊富な木曽川を水源に選んだことがその後の名古屋の発展に幸いであった言うべきでしょう。