昔、名古屋の三蔵通(広小路通の2本南)と本町通の交差するあたりに「伝光院」という寺がありました。寺には「五輪塔」があり「紫式部の墓」だと伝えられています。また、寺のすぐ近くには「紫川」が流れていました。二つの「紫」にまつわる、悲しい伝説が残っています。
伝光院(名古屋市名東区)
|
むかし、名古屋がまだ一面の林で、小さな村が点々としていた頃のある春のことです。
仕事を終えた村人が、川のほとりまでくると、山道を疲れきった様子で歩いてくる旅の女の姿がありました。
「もうし、このあたりに泉はないでしょうか。」
大木の根元からこんこん湧きでる美しい泉を指すと、旅の女は何度も喉をうるおしました。そして村人にたのんで、泉のほとりに小さな小屋を建ててもらい、大木の根元に石を積み重ねた「五輪塔」を建ててもらいました。
村人は旅の女に思い切って尋ねました。
「あなたは、いったいどこのお方でございますか。」
「今まで身分をかくしてすみません。実は京都で、紫式部様というりっぱなお方にお仕えしていた越後というものでございます。式部様がお亡くなりになったので、悲しさのあまり故郷へ帰る途中でしたが、泉があまりに清らかなので、ここで式部様をおとむらいしようとお墓までお願いしたのでございます。」
紫式部の碑
|
村人の思ったとおり、女は都の人でした。
やがて越後は髪をおろし、尼になりました。
それから三年間、毎日お花を供えてお経を上げました。
ある日、村人が墓の前に来ると、一通の手紙がありました。
「長い間お世話になりました。三年のおつとめが終わったので、式部様のおそばに参ります。」
村人は、川下の藻にかかった越後の墨染めの衣を見つけました。そして越後のなきがらを式部の墓の傍らに埋めて、厚く葬ってやりました。
時が経ち、村人はその川を「紫川」、泉を「紫の泉」と呼ぶようになりました。江戸時代後期になると、「昔越後が身を投げて、浮いたり沈み浮いたり沈み、紫川に身を投げた、身を投げた」と唄われていました。
伝光院は、現在、名東区に移転しています。寺にあった五輪塔も一緒に移っておりました。
伝光院への地図
|
【名古屋城下の水事情における紫川関連情報はこちらへ】
戻る
|