鍋屋上野浄水場の「銘板」
寄稿者 : 堀内 厚生 |
名古屋市初の浄水場…鍋屋上野浄水場
鍋屋上野浄水場は,名古屋市で最初に造られた浄水場である。大正2年8月竣工のこの浄水場は,現在では全国でも珍しい河川表流水の緩速ろ過池14面(創設時は8面)を備え,爾来80年余にわたり名古屋市民に独特のまろやかな水を送り続けている。
ろ過池の総面積は4万㎡にも及び,その水面は清らかな木曽川の水を満々にたたえ,時には鴨など水鳥も飛来する都会のオアシスでもある。
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今ではビルの谷間の浄水場になってしまったが,それでも自然を失いつつあるなか,市民には,またとない憩いの場所である。市水道局では,毎年水道週間には市民に開放し好評を得ている。
コンクリート製の銘板発見
話題は若干遡るが,昭和63年にこの浄水場の緩速ろ過池の整備事業を行った時, 4号池の流出井の北側壁面に,創設期に刻まれたコンクリート製の銘板がはめこまれているのが発見された。80年(厳密には75年)ぶりに人目に触れた銘板。今様に言うならば, タイムカプセルとでも言うべきであろうか。早速浄水場職員が苦労の末,拓本をとり,レプリカを作成した。銘板には,「明治四十三年八月起工,大正二年八月竣工」の文字とともに,技師長上田敏郎氏など6名の名前がはっきりと読みとれる。
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過日,私は渇水の御見舞とこのレプリカの見学を兼ね鍋屋上野浄水場を訪れた。場長さん始め職員の方々が気を利かして, レプリカから何枚もの拓本をとってくれていた。私はそれを拝見しながら,80年の「時の重み」と創設期の先輩たちの労苦に想いを至すと同時に,またいくつかの興味ある謎も脳裏に浮かんだ。
思いつくままを挙げてみよう。そして,独断解釈も…。
なぜ緩速ろ過池に
謎の第1は、何故この銘板が緩速ろ過池に設置されたかである。それも人目に触れにくい場所に。
この浄水場には当時,鍋屋上野の日銀と言われ,現在は東海の名建築物に入る英国製レンガで造られたポンプ室がある。
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内部にはスイス・ズルザー社製のポンプ,アメリカ・GE社製の直結モーターと,いずれも当時の世界最高級といわれた製品が設置されていたのに,何故ここに銘板は置かれなかったのであろう。
(私の解釈では,上田技師長は,近代水道の要件の一つである清浄な水の供給ということに深い関心を持ち,緩速ろ過池の設計に当たっては常々格別の指導をしていたのではなかろうか。)
上田技師長の銘板が緩速ろ過池に置かれるのも不思議ではない。また,人の目につかない場所に設置したのは技術者の密やかな誇りか,或いは次の謎に深い関係があるのではないかと思われる。
だれが造ったのか
第2は,この銘板の最大の謎であるが,誰がこの銘板を造ったのかである。普通ならば最大の功労者で,最高の権力者でもある上田技師長が造ったと想像されよう。しかし,上田技師長は工事完成前の明治45年6月1日に,誠に痛ましいことながら過労に倒れ逝去している。ならば,大正2年8月竣工は彼の知り得るところでなく,当然彼の造ったものではない。
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それでは誰が・・・。
(この解釈を銘板記載の井上喜次郎技師というのはどうだろう。その理由は,上田技師長は井上技師を大変信頼し,評価していたことによる。
上田技師長は明治36年,時の名古屋市長青山朗から水道布設調査について嘱託を受け,翌年には報告書を提出している。
その報告書は木曽川を名古屋市水道の水源とする,という今日の名古屋の水道をかくあらしめた歴史的なものである。
その報告書の最後に丼上喜次郎の名を挙げ,「その勤勉と労を多とし閣下に報告する」とわざわざ記している。井上技師の感激と,上田技師長に対する感謝は並大抵のものでなかったであろう。そして当時の技師の権力からすれば,銘板を造り,秘かに人目につかない緩速ろ過池の下部にはめこむのも容易であろう。それは今は亡き上田技師長に対する彼自らの報恩でもあり,追悼の碑ではないかと思い巡らしてみた。もう一つ考えられることは,銘板に記載はないが,上田技師長を直接補佐し、後年彼とともに「近代水道100人」の一人に選ばれた茂庭忠次郎氏ではなかろうかということである。しかし,茂庭氏の当時の日記等にはそのような記述もなく,また戦前の日本水道史に同氏が上田技師長について記述した中にも,それを裏づけるものはない。)
どうして6人の名前だけか
第3の謎は,当時の工事関係者は技師,技手,技手補のみでも工事最盛期には60名余を数えるほどなのに,上田技師長は別格としても、何故この6名だけが銘板に刻み込まれているかである。
(当時の現場工区は3~4に分かれおり、鍋屋上野浄水場は第2工区に入っていた。ここには12名~14名の技手や技手補がいたと思われる。この中のうち,特に緩速ろ過池を担当した技手(補)の名前を書き留めたのではなかろうか。それにしても,緩速ろ過池のみに銘板がはめ込まれるのも不自然である。さらには,井上喜次郎技師は当時第3工区の工事係長であり,第2工区の工事係長は厳然として存在していたのである。この係長は何故名前が刻まれていないのであろうか。これを独断で記述するにはあまりにも空想の域を脱しないので,お許しいただきたい。)
先人の誇りと生の人間関係
銘板を前に,次から次へと湧き出る謎に私の貧困な想像力は混乱を極め,独断解決はやはり独断であって矛盾だらけになってしまったようである。
しかし,窓から眺めた緩速ろ過池の水は混沌とした私の頭とは別世界のように,さざ波一つ立っていない。この後,何十年とあの銘板は人の目に触れることはないであろう。しかし,銘板から垣間見たものは,水道創設期の先人たちの高らかな誇りと生々しい人間関係の一端を覗かせてくれたような気がする。
(おわり)
この文章は、平成6年日本水道鋼管協会機関誌「日本の水道鋼管」に、当時名古屋市収入役だった堀内厚生氏が寄稿されたものを、氏の了解を得て本ページに登載したものです。
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我々取材班は、緩速ろ過池の改修工事が本格化し、すべての池の水が抜かれた平成22年11月、銘板がある4号池の流出井を見学することができました。
命綱をつけマンホールから側壁のハシゴを5mほど下ると、流出水を受ける大きなラッパ菅とそれにつながる流出菅が部屋を占めていました。池側に、砂ろ過された水をこの部屋に集めるため、池の中央部を横切っている溝の出口がありました。
四角の出口の下部には水垢で茶色になった銘板が濡れて光っていました。
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大正時代、誰かによって造られ人の目に触れることなく水中にあった銘板は、昭和末期の空気を吸ったものの、また水中に。そして今回、ふたたび平成の陽の光を浴びることになりました。
この謎に満ちた銘板は、改修作業で取り外され、市水道100年の歴史の重みを伝える貴重な資料として、平成26年9月にオープンした「水の歴史資料館」に展示されております。