木曽木材のめぐみ

 名古屋市は平成22年に名古屋城開府400年を迎えました。それを機に現在、本丸御殿の再建が進められております。
 本丸御殿は木造建築であり、使用される用材の大部分は、木曽の山林から伐り出されます。
 戦災で焼失した本丸御殿は慶長20年(1615)に完成しましたが、使用された用材は全て裏木曽(注1)と呼ばれた岐阜県川上村、付知村、加子母村(いずれも現在中津川市)から伐り出され、木曽川を利用して名古屋市内熱田神宮付近に貯木されました。
 築城当時の本丸天守用材は欅、檜、松の角物、平物、板子等あわせて約3万8千本(内檜は約2万5千本)であり、本丸御殿の用材は約1万本とされています。
 このように名古屋のシンボルとなっている名古屋城をはじめ、名古屋の街づくりに重要な役割を果たしてきた木曽木材の江戸時代の状況について調べました。

白鳥貯木場(昭和52年)ウィキペディアより現在の白鳥地区 Googleより

白鳥公園
白鳥公園

1. 木材の伐採と輸送
 木曽は、檜に代表される日本三大美林(注2)の1つであり、木曽全域の95%が山林となっています。
 戦国時代、豊臣秀吉が直轄地として支配していましたが、関ヶ原の合戦後に徳川家康の支配下になり、これを元和元年(1615)家康が9男義直に与えたことにより尾張藩領になりました。
 この時期、尾張藩城下では清州からの移転による城下町の建設、名古屋城の造営と用材の大量需要が続き、森林資源は枯渇していきました。
 このため尾張藩では寛文5年(1665)に改革をおこない、村人の立入を禁止する「留山」を定め、入山が認められた「明山」でも伐採禁止の停止木(欅、木曽五木(注3))、 伐採許可が必要な留木(栗、松)を定め、厳しい山林保護を進めました。
 また伐採する際は斧、鉞(まさかり)を用いることとしました。木を伐る音が山中に響き盗木防止になったようです。
 伐採した木材は山奥から1本ずつの「管流し」で木曽川を流下させ、中流(八百津・錦織網場)で筏に組まれて河口まで運び、熱田付近或いは桑名に貯木されました。
 木材は1本ごとに尾張藩の符号(切判)が押されおり、流下する木材についても上流の木曽上松から河口まで川並番所を数か所設置し、厳しく監視しました。
 伐採してから貯木場までの間、管流しの木材が網場で回収できなかったり、組まれた筏が急流でばらばらになることも多かったようで、その木材を拾って届けなかった者には「盗木1本首1つ」という厳しい罰がありました。
 江戸初期の1年あたりの平均伐採量は下記のとおりです。  なお、清州越しは1610年から1613年におこなわれ、名古屋城の天守閣の築造は1610年から1612年に、本丸御殿の建設は1612年から1615年におこなわれました。
 

江戸初期の平均伐採量
年代 平均伐採量 摘要
1590年迄 5千立米/年 木曽氏の支配下
1590年~1600年 5万立米/年 豊臣秀吉の直轄地
1600年~1615年 15万立米/年 徳川家康の直轄地
1615年~1645年 30万立米/年 尾張藩領

          

(注1)「木曽」は通常、長野県木曽谷一帯を、「裏木曽」は岐阜県加子母村一帯をさします
(注2)日本三大美林:青森ヒバ、秋田スギ、木曽ヒノキ
(注3)木曽五木:檜(ひのき)、椹(さわら)、高野槇(こうやまき)、翌檜(あすなろ)、𣜌(ねずこ)

2.木材の需要
 用材として定期的に需要のあったものとしては武家屋敷、神社仏閣等の新築、建替えがあり、特に伊勢神宮の遷宮では木曽の木材が大量に使用されています。
 また大きな火災、地震、洪水等の際には需要が急増したことが推察されます。

(1)伊勢神宮の遷宮
 伊勢神宮で20年ごとに行われる遷宮の用材は当初、伊勢地方の山で伐採していましたが、中世紀に入り用材が不足するようになり、宝永6年(1709)以降は主に木曽の木材が使用されるようになりました。
 当時の用材本数は、内宮、外宮とも各1,328本の記録がありますが、現在では両宮のご正殿、諸別宮の殿舎60数棟全て造り替えるので13,800本が必要となります。このすべてが木曽国有林より伐り出されており、お扉木や棟持柱の用材は樹齢400年を超える巨材を使用しています。
 建替えられたときに出る古材は全国の神社の修理、建替えに再利用されています。

   (2)災害による需要
 火災、洪水等による木材の需要量については詳細な記録はありませんが大規模災害の場合、常時貯えられている木材だけでは足りなかったことでしょう。
 下記に尾張藩の大規模災害を列記します。
1)火災
 火災で焼失家屋が1,000戸以上の記録は下記のとおりです。

江戸時代の大火
年月 地域 軒数
万治3年(1660) 1月 城下のほぼ全域 侍屋敷・町屋2,367 寺社30
元禄13年(1700) 2月 城下の西半分 侍屋敷・町屋1,670 寺社15
享保9年(1724) 5月 同上 町屋1,806 寺社18
宝暦7年(1757) 12月   2,500余り
安永6年(1777) 12月 城下の東部 1,400
天明2年(1782) 1月 城下の東南部 侍屋敷・町屋・農家10,300 寺社21
文政7年(1824) 12月 城下の南部 1,400

                    

2)震災
 大きな被害のあったと考えられる地震は下記のとおりです。
  宝永地震:宝永4年(1707) 10月 M:8.6
      津波は紀伊半島~九州 東海道、伊勢湾、紀伊半島で大きな被害
      死者2万、潰家屋6万、流失家屋2万
   安政東海地震:安政元年(1854) 12月 M:8.4
  安政南海地震:  同上       M:8.4
      東海地震の32時間後発生、関東~九州に被害があり、津波は串本で波高15m
      死者2~3千、 潰・焼失家屋約3万

3)洪水
 名古屋城下の北を東から西に迂回して伊勢湾に入る庄内川は、慶長2年(1597)から274年の間に堤防決壊が49回起きています。川の左岸が破堤した場合、城下へ流入した水はなかなか引かなかったと思われます。
 特に被害の大きかったものは下記のとおりです。
 嘉永3年(1850)の洪水は6日間続いた雨と台風によるもので庄内川の両岸が破堤し、尾張藩領全体で流失、倒壊家屋4,970戸、田畑の荒廃59万9721石と記録に残っています。これは尾張藩60万石、1年の収穫が零になったことと同じです。
 その他、城下の洪水のたびに貯木場の木材が流失しており、一時に2万本が流失した記録も残されています。

3.森林の保護
 木曽の檜林は江戸時代には尾張藩の御用林、明治22年(1889)からは皇室の御料林、昭和22年(1947)からは国有林と所有者が変遷し、一時荒廃した時期はあったものの、時代を通じて保全に努められてきました。
 檜林は自然に放置したままでは育成できず、植樹、間伐など人の手を加えてはじめて美林として残せるものです。現在では民間所有は少なく、ほとんどが国有林であり、中部森林管理局が木材の生産、水源涵養、レジャー等を目的として保護しております。
 また、江戸時代に木材運搬に重要な役割を果たした木曽川も電源開発のためダムが造られるようになってその役割を終え、木材運搬は鉄道、トラックに取って代わりました。
 かつて名古屋市内、港湾部の広大な貯木場や堀川に浮かべられた多数の太い丸太もその姿を消し、檜の原木を目にする機会もなくなりました。名古屋の街づくりに貢献してきた木曽川上流部の森林のめぐみを実感することも少なくなっています。
 また、木曽の森林は木材資源を提供してくれるだけでなく、木曽川の清く豊かな水を育んでいるという重要な役割も果たしています。
 名古屋市長だった杉戸清さんは、木曽の森林と木曽川への感謝の気持ちをこめて、こんな句を詠みました。
      「みなもとは 木曽の山々 遠霞」
 名古屋市の水道はこの木曽川の水を水源として恩恵を受けるようになってから平成26年に100年目を迎えます。この変わらぬ水のめぐみを与え続けてくれる森林の保全のために名古屋市は流域自治体、市民と一体となってさまざまな取り組みをしているところです。

 引用文献
  新修 名古屋市史 第三巻、第四巻、  名古屋市(平成11年)
  資料編近世2   名古屋市(平成22年)
  名古屋城史   名古屋市(昭和34年)
  理科年表 平成23年  国立天文台編(平成22年)
  木曽川は語る・川と人の関係史  木曽川文化研究会(平成16年)
  郷土史にみる木曽川の流域史  中山雅麗(平成14年)
  神宮式年遷宮の歴史と祭儀  中西正幸(平成7年)

追記
 巨大檜の標本
 

 木曽御嶽山周辺には今でも巨木が多く、森林や渓谷等散策の出来るコースがいくつかあり、遠方からも多くの人が訪れているようです。
 御嶽山の南面、裏木曽の旧加子母村には木曽山地でも有名な檜の大木が有り、神木とされていましたが枯れはじめたので伐り倒されました。
 この檜の標本(直径2m、樹齢950年)が名古屋大学博物館で展示公開されています。

 

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