稲葉地配水塔の話
昭和12年3月に名古屋市で汎太平洋平和博覧会を開催することになったが、名古屋市はこれを目指して土地区画整理事業を行ない、笹島にあった駅を近代的な名古屋駅として現在の地点に移設すると共に桜通りを整備したのである。
これを契機に区画整理事業が名古屋西部のほうまで急速に伸展し、水需要も急速に伸びたので、この対策として西部末端地域に配水塔を築造して使用量の少ない夜間に水を貯留し、昼間の水圧低下を防ぐようにするため計画されたのが稲葉地配水塔である。
この配水塔は4000m3の水を蓄える直径33m、水深5mの水槽を地上約27mの高さに中央に一本の心柱と、その外部の16本の円柱で支えた鉄筋コンクリート造で、外見はパルテノン神殿を思い出させるような美しい構造である。この塔も東山配水塔を設計した成瀬薫さんの設計で、昭和12年5月に完成した。
しかし、この地域は昭和19年に配水管が増強されたこともあって、この役目は7年間で終了した。昭和20年1月の名古屋大空襲でも爆撃されずにいたが、アメリカ軍はこの配水塔は爆撃してもすでに意味のないことを知っていたのだろうか。
戦前の稲葉地配水塔
戦後、西の方の焼け野原には、赤い豊国神社の大鳥居と稲葉地の配水塔だけが目立って遠くから見え印象的だった。
名古屋市は昭和30年代後半から各区に図書館を造ることになったが、施設の有効利用の観点から昭和40年に中村区の図書館として利用するため改造された。
この建物は円形で、外部からの景観は良いが、内部は無駄なスペースが出来て使い勝手が良くないのが欠点である。こうしたこともあって、平成3年に中村図書館は中村公園内の文化プラザに移転した。
その後塔は放置されていたが、地元の俳優の天野鎮雄氏と西尾市長との対談があり、名古屋にはアマチュアー劇団の手ごろな練習場がないので、名古屋に演劇文化が根付かないという話が出て、これを利用することなった。そして、約十三億円をかけて改修工事を行い平成7年12月演劇練習場「アクテノン」として再生した。
この建物の中にはモニュメントとして水道のバルブも残され、過去の栄光にも配慮がなされている。
稲葉地配水塔内部(アクテノン)の写真
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