木曽三川 水とのたたかい
1.はじめに
1)木曽三川の概要
本州の中央部に位置する木曽川、長良川、揖斐川の三川の水源は標高1,000から3,000m
の山岳地帯で、全流域面積は9,100平方kmのわが国でも有数の大河川であり、三川がほぼ
同一地点に集まる濃尾平野では1本の河川の様相となって伊勢湾に注いでいました。
そのため、三川は洪水のたびに影響し合い水害の発生あるいは流路を変えることもたびたび有り、
地元では住民の水害に対する自衛手段として輪中堤、水屋等が作られてきました。
2)水害と輪中の歴史
水害の歴史をたどってみますと古くは神護景雲3年(769年)尾張国では河道を変えるほど
の大洪水があったことが知られており、これにより現在の愛知県西部では数日間田畑および民家が
浸水しました。
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輪中については、元応元年(1319年)今の高須輪中が潮除堤を築いて伊 勢湾からの潮汐の侵入に備えたのが最初のようです。江戸時代になって新田の開発が進み新たに掛 廻堤を築いて輪中を形成したものもあり、輪中の数は大小合わせて70から80ヶ所ありました。
しかし、先発の輪中は新規に水除堤を築造しようとするものに対し堤高を制限するような治水策 を強要したようで、これを地元では尺違堤と言い、養老町内では堤高が0.3m異なる輪中 の存在が知られています。
治水神社 |
1)尾張藩の治水
徳川時代となり尾張藩により治山、治水事業が盛んに行なわれるようになりました。
慶長14年(1609年)尾張藩は、木曽川左岸に犬山から弥富まで12里(48km)におよ ぶ、美濃側より3尺(0.9m)高い御囲堤という連続堤防の築造に着手しました。
築堤に当たり下記のような 不文律による 美濃側への強制があったようです。
◎対岸美濃の諸堤は御囲堤より低きこと三尺たるべし。
◎尾張領御囲堤御修繕相済候迄は、対岸の諸藩領分堤普請遠慮これあるべし。
御囲堤の築堤により犬山付近から愛知県側に流入していた「三派八流」と称された網流状態の河 川は締め切られ、一部旧河道を利用して用水路が開削されて新田開発が進みました。
その後も度重なる出水により御囲堤でも自普請での修復と増強が繰り返されましたが寛政元年 (1789年)と同10年の出水による破堤があり、同3年および同11年に尾張藩による2度の 堤普請が行われ更に3尺(0.9m)ずつ合わせて1間(1.8m)かさ上げされました。
2)美濃側の治水
木曽川右岸美濃側では尾張藩、他藩、天領、旗本領、寺社領等が混在しており統一した治水工事 は困難で、そのため自衛的水防体制として輪中堤が形成されてきました。輪中地帯では洪水の度に 河床が上昇すること、また輪中一存での新田開発により輪中堤のかさ上げや新堤築造を余儀なくさ れてきました。
これらの工事が水の流れを変えたり水位の上昇を招くこともあり、近隣の輪中から反対の声も多 く流血を招くこともありました。また水位の上昇は輪中内の排水に支障を生ずることになりました。
幕府命令による御手伝普請では延亨4年(1747年)岩代藩(二本松)に命じたのが最初でそ の後、文久元年(1861年)迄16回施工されていますが御手伝普請を命ぜられた藩数は延70 藩にのぼり、中でも薩摩藩は3回御手伝いを命ぜられたことが記録に残っています。
延亨5年(1748年)伊勢湾の河口近く三川が合流している油島ではその上流で長良川と合流 した木曽川の河床が揖斐川より2.4m以上も高くなっており、その合流口約2kmを短くする工事 を施工しましたが目に見える効果はなかったようです。
宝暦3年(1753年)夏、三川と支派川では数十年ぶりの大洪水により破堤、輪中の水没が 数多くあり同年暮薩摩藩に御手伝普請が命ぜられました。工事は1年有余の短期間で竣工しました が油島の締め切り等の難工事で費用も多大なものとなり、多くの方の命が失われたことは広く知ら れているところです。
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下記の4普請は徳川時代の治水4法と言われています。
◎自普請とは領主または住民の出願を許可するもので費用は出願者の負担とする。
◎公儀御普請とは幕府の費用で施工するもので地元住民を日雇とする。
◎国役普請とは住民に国役金を賦課してその用途にあてるもので費用の大小により賦課対 象範囲が決まる。
◎御手伝普請とは幕府による普請の御手伝いであり命ぜられた藩が普請費用を負担する。
3.木曽川下流部の明治改修
1)オランダ技術者の招聘
明治になり新政府は河川の治水、港湾の整備を進めるためオランダより数名の技術者を招聘し ましたが、その中で木曽三川の改修に深く携わったのがヨハネス・デ・レーケでした。
明治5年最初に来日したファン・ドールンは利根川と淀川の治水および大阪湾の築港について精 力的に調査して計画書を政府に提出しました。計画施工を進めるため翌6年引き続きオランダより 招聘した技術者の1員としてデレーケは来日しました。
彼は最初淀川水系の治水、治山および大阪築港の計画施工を担当しましたが、11年木曽三川 の改修計画に携わりました。
水制 |
木曽三川では度重なる洪水被害に耐えかねた地元より三川分流の強い要望があり、デレーケは 11年木曽三川流域(犬山から津島まで)の現地調査の結果を「木曽川下流の概説書」として提出しまし た。
彼は輪中について「オランダの輪中堤」は洪水が海へはやく流れることを第一義に考えているの に対し、「濃尾平野の輪中」は人の住みやすいことを第一に考えるため川の中に堤防を作ったり水 制を設置したりしているとして、洪水を早く海へ流すことで被害を少なくできないかと考えたよう です。また13年木曽川上流山地(奈良井から岐阜まで)を現地調査し植林を進めるよう、また河岸、山 腹の崩壊箇所では砂防堰堤を階段状に敷設するよう進言しています。
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◎水害の主原因:木曽川では流送土砂が長良、揖斐両川に較べて非常に多いため下流部では木曽 川から両川へ向かって流れて輪中内の水はけが悪くなっている。また洪水のたびに河床が上昇する。
◎将来の状態:流域の山林、特に木曽川流域の山林の保護制度を設けなければ各輪中沿いの河床 が年々埋まって堆積する。
◎改修の方法:木曽川と長良川を河口まで完全に分水し、新たに木曽川の河道を開削して洪水を 長良川へ溢流させないようにする。また通船のため樋門を設ける。
◎木曽川の対策:本川を改修する。土砂を流出する小河川での堰堤の建設および植林を進める。 また流域に厳しい規則を設け、できるだけ管理人を置き権限を持たせる。
3)下流部の改修計画と施工(明治改修)
デレーケが中心となり17年より始まった改修計画は同19年完成しました。
計画の作成中も18年の暴風雨による水害では破堤が約24,000間(約43km)あり、最初 の計画では木曽川と長良川の分流で進められましたが、再三設計の見直しの結果、三川を完全に分流することになり、長良川と木曽川の合流地点より下流では木曾川の河道を新たに開削することに なりました。
改修の目的は下記の通りでした。
洪水の害を防止すること。悪水の改良を行うこと。舟航の便を図ること。
船頭平閘門 |
工事の範囲は三川で災害の最も甚だしい中流部より下流に限られましたが、概ねJR東海道線の 鉄橋より下流でした。
工事の中でも長良川と木曽川の合流地点より下流、現在の木曽三川公園までの約11kmでは東 の立田輪中と西の高須輪中に挟まれた木曽川を長良川の河道としました。そして、木曽川の右岸堤防を長良川との 背割堤防としました。さらに立田輪中の1部を開削し、新たに木曽川の河道とするとともに三川に水制を371箇 所設置しました。また油島の洗堰と通船路は新堤で締切り、船頭平村に閘門を設置しました。 施工に当たって利用可能な輪中堤は活用されていますが、それでも新堤防の築造は88kmとな っています。
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◎堤防切所:分流前1,321箇所 分流後228箇所。
◎耕地流亡:分流前3,277町歩 分流後928町歩。
また舟運のため設置した船頭平閘門は35年に使用が開始されましたが大正5年までに毎年2万隻以上が利用 しました。
明治20年頃からオランダ人技術者の帰国が相続き、24年以降はデレーケ1人になるという状 況でした。36年に離日するまでの30年間デレーケは各地の河川計画、琵琶湖疎水、利根運河、 大阪港、大阪上水道、東京湾、横浜港等の計画の作成に携わりました。
4)明治改修の残したもの
木曽川では長良川との旧合流地点の上流に昭和49年、馬飼大堰が完成しましたが、それより下流の 木曽三川公園までの間の右岸側には明治改修による水制が30ヶ所以上残っています。改修後約100年を経過 した今では水制や河川敷に樹木が繁茂し、砂に埋もれた水制もありますが鳥や昆虫の楽園となり、 河川敷には子供の遊び場や遊歩道も整備され憩いの場を提供しています。
木曽、長良両川の旧合流地点には明治改修を記念する石碑が建てられています。また、三川公園 より下流約1kmの油島千本松の中には宝暦治水碑があり、ここに明治改修100周年を記念して 薩摩藩総奉行平田靱負とデレーケのレリーフが建立されました。
岐阜県:岐阜県治水史上、下巻
国交省木曽川下流工事事務所:デレーケとその業績
国土開発調査会:木曽三川その治水と利水
伊藤安男:洪水と人間(古今書院)
上林好之:日本の川を甦らせた技師デ・レイケ(草思社)
岐阜県:岐阜県史 通史編近代上
伊藤安男、青木伸好;輪中(学生社)