近代上下水道の夜明け前 (その1)

 1868年(明治元年)長く続いた徳川幕府が倒れ、王政復古がなって明治時代が始まった。  明治政府は五箇状の誓文を発し、版籍奉還、廃刀令、廃藩置県などの政策を実行してきたが、「自ら国家を保持するに足る制度を確立するにあらざれば不可なり。」として、1871年(明治4年)10月に岩倉具見を特命全権大使とし、大久保利通と木戸孝允を副使とする欧米使節を派遣した。
 この派遣団の目的は米国との不平等条約を是正する交渉を行うと共に、行政、司法、外務、財政、軍事、教育、医学、産業など各界の優秀な人材を派遣して欧米の制度を調査させることでもあった。そして、各国への留学生を含む100名以上の団員で、1年10ヶ月、12ヶ国におよぶ調査旅行を行なっている。
 この派遣団は米国との不平等条約の是正には成果を得ることができなかったが、各国での調査は明治政府の制度の確立と改革に大きな成果をもたらしたのである。
 この調査団の中に、政府の役人となった漢方医である長与乗継(専斎)が文部中教授として参加していた。

長与専斎 長与専斎
長与専斎は、暦代大村藩に漢方医として仕えた家系で、祖父の俊達は門前に診療客が溢れるほどの名医であった。専斎の父、中庵は早逝したため、専斎は九歳のとき祖父、俊達の養子になり長与家の嫡子となる。
 長与は、三歳の時から大村藩五教館で漢文の修行を始め、その後16歳で緒方洪庵の適塾に入門し、1858年(安政5年)福沢諭吉が江戸へ出た後塾頭になっている。
 この時代、医師にとってコレラを如何に予防するかが最大の課題であった。長与は積極的に取り組み、大阪でコレラが流行したとき「虎狼痢治準」を著しコレラ予防に活躍した。
 1871年7月に文部省が設置され江藤新平が初代の文部卿となり学制の改革が急速に行われたとき、長与は明治政府の文部省の文部中教授として東京に転勤になった。 そして、この年の10月には欧米使節団の一員として派遣されたのである。
 長与はアメリカではほとんど見るべき成果を得る事ができなかったが、ヨーロッパ、特にドイツの医療制度および衛生行政の視察の経験は、帰国後の医療および衛生行政に大いに生かされたのである。
 その調査結果は「是、実に其の本源を医学にもとり、理化、工学、気象、統計等の所科を包容して之を政務的に運用し、人生の危害を除き国家の福祉を全うする所以の仕組みにして、流行病伝染病の予防は勿論、貧民の救済、土地の清潔、上下水の引用排除、市街家屋の建築方式より薬品染料、飲食物の用捨に至るまで、凡そ人間生活の利害に繋がれるものは細大となく収拾網羅して一団の行政をなし、『サニテーツ・ウェーセン』『オッフェントリヘ・ヘゲーン』などと称して国家行政の重要機関となれるものなりき。」というものである。
 これはまさに現在の厚生行政全般についてのことであり、厚生行政の大本は長与の調査に基づいてわが国に取り入れられたものである。
 長与は帰国後、hygieneの原語を健康もしくは保健と直訳しても面白くないとして、荘子の「庚桑楚篇」にある『衛生の径』から字面も高雅で音の響きもよい衛生という言葉を見つけこれを保健保護の事務に適用することとしたのである。
 長与は明治6年3月に文部省医務局長に就任し、明治8年6月医務局が内務省に移されると同時に医務局を衛生局に改名して其の初代局長に就任した。
 そして、初めに長与が手がけたのは当時流行した天然痘に対し種痘を広めること、長崎から始まったコレラの流行に対して海港検疫の諸規則を設けたことなどだった。
 さらに、医学校の設立、医師の試験制度に至るまで、医療制度全般の制度の確立と基礎を造ったのである。

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近代上下水道の夜明け前 (その2) 2009年11月 掲載

 開国して横浜初め、新潟、長崎、函館、神戸などの港に外国船が入港するようになると、当時の海港検疫のみではコレラなどの伝染病を防ぐことは出来なかったが、海外での調査の結果からコレラは飲料水などの飲食物を介して流行することが知られており、不完全な水道に問題があることが解っていた。
 これまでの飲料水は一般的には開水路や浅井戸の水で、水事情の悪い都市によっては藩が作った水道もあったが、これは河川水や湧き水を桧板や土管で作った配水管で家庭の井戸に連絡した程度のものであった。
 明治10年代には、コレラによる死者が年間10万人ヲ超える年もでるようになり、内務省でも明治11年5月に「飲料水注意法」を発し、伝染病予防など公衆衛生の確保が近代国家としての急務であるとし、衛生行政に力を入れることとなった。


コレラ患者数と死亡者数
患者数(人) 死亡者数(人)
明治10年 13,710 7,961
明治12年 162,637 105,786
明治15年 51,638 33,784
明治18年 13,722 9,310
明治19年 155,923 108,405
明治23年 46,019 35,277
明治24年 11,142 7,760
明治28年 55,144 40,152
明治35年 13,362 9,226

 明治12年7月には,内務省に中央衛生会を設置し、コレラ等伝染病予防について審議を行うことになったが、コレラの発生後の対策に終始していたようで、長与は衛生工事の必要性を主張したが、政府はコレラの流行に姑息な予防法を繰り返していたのみであった。
 そこで長与は東京府知事と謀り、明治15・16年にわたり、衛生局と東京都の予算から連帯支弁をし、市内の最も不潔にしてコレラの流行のはなはだしい神田の小部分を画して下水道工事を行ったのである。

神田下水
神田下水

 これは、レンガつくりの卵形渠で現在も残っているが、市民から見える形で目の前に衛生対策の標本を示したのがわが国最初の近代的下水路・神田下水だったのである。
 一方、明治16年5月衛生問題に対する国民の啓蒙が必要であることを痛感していた医学者たちが大日本私立衛生会を設立して常会を開催して公衆衛生一般に関する講話を実施することになった。
 横浜では明治6年に布設した木樋水道が15年頃にはほとんど使用に耐えない状態になっており、米英の領事館からも改善について要望や意見が寄せられていた。
 しかし、民間からは近代水道を布設するという申し出もなく神奈川県が、近代水道の布設を検討することになっていた。
 明治16年2月、香港に赴任し、広東と香港の近代水道を設計したイギリス陸軍工兵隊のヘンリー・スペンサー・パーマー工兵中佐が帰国を命ぜられ、帰国の途中東京に立ち寄ったがその際、神奈川県は横浜水道の布設設計をパーマーに委嘱した。

ヘンリー・スペンサー・パーマー
ヘンリー・スペンサー・パーマーの胸像

 パーマーは3月から3ヶ月間の契約をむすび、多摩川水源、相模川水源の実地調査の上、報告書を提出して帰国した。そして、報告を受けた神奈川県は両案について検討の結果、工費的には高くつくが将来的な拡張にも対処しうる相模川案を採用することにした。
 パーマーは求めに応じ明治18年4月、再度4人の技師をつれて来日して横浜水道工事の技術顧問として勤め、明治20年9月日本初めての近代水道を完成させたのである。
 その後パーマーは大阪水道、神戸水道、函館水道、等の調査も行っているが、明治26年東京で死去し青山墓地に埋葬された。そして、水道の近代化に尽くした偉業を称え横浜の野毛山公園に胸像が立てられている。

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近代上下水道の夜明け前 (その3) 2010年3月 掲載

 一方、内務省は、明治4年尾張藩からアメリカのラトガース・カレッジに留学し、帰国後明治新政府の少壮官僚として活躍していた永井久一郎を明治17年5月から約一年半ロンドンで開催された万国衛生博覧会の出席と衛生事務見学のためヨーロッパに派遣した。この時、長与は永井に先の欧米視察の折り、良い評判を聞いたバルトンを日本に招請する交渉も依頼している。
 永井久一郎は小牧・長久手の合戦で秀吉方の大将池田恒興を討ち取った永井直勝の庶子の子孫である。
 直勝は下総古河十万四百石の大名となり、大和の新庄で明治まで続いたが、直勝の庶子・直正は尾張藩の鳴尾村(名古屋市南区鳴尾町)で帯刀を許された豪農の家系として続いてきた。第十一世・久一郎の父、匡威は俳人で俳号星岬、のち芝椿といい、鳴海の誓願寺に芭蕉の供養堂を建立し、芭蕉像を祭った人である。永井家累代の墓は東浦町の了願寺にあるが、久一郎の墓は東京の雑司が谷墓地に有るようである。
 久一郎の息子壮吉は作家、永井荷風であり、弟の阪本釤之助は福井県知事、その後第七代名古屋市長になった人である。


中央は永井久一郎、左から二人目は長男壮吉(荷風)

 永井は帰朝後、大日本中央衛生会で明治19年1月から三回の常会において「欧州諸国衛生上巡視の講述」と題して、ヨーロッパの上下水道に関する講演をおこなった。この内容は後に補筆され「巡欧記実衛生二大工事」として出版されている。
 この出版にあたり、長与は序文に「衛生工事は衛生事業の基本であり、伝染病殊にコレラ病予防の最上の良法であることは学理実験の一致するところであり、流行時のみ検疫消毒を繰り返し、そのため多くの金額を費やすようなことは、人命財産の損害にとどまらず、文明国としての一大汚染というべきである。」と記している。
 また、内務省の中央衛生会では、明治20年5月の定例会に至り、長与局長は「政府のコレラ対策は、発生後の対策であり、発生を予防するためには、上水の供給、下水の排除、家屋の建築の衛生工事ヲ興し、病毒を撲滅させることが必要である。費用上の問題から、まず、上水道の供給に着手すべきであり、こう言うことについて、会長から建議されることを望む。」という意見を提出した。
 中央衛生会では、この意見を採択することになり、5名の委員により成案がまとめられ、「東京に衛生工事を興す建議書」と題されて、内閣総理大臣伊藤博文、内務大臣山県有朋に提出された。
 その後、国は経済上、軍事上、外交上の体面上から整備が必要とされた、三府(東京、大阪、京都)五港(横浜、函館、長崎、広島、神戸)の上下水道に国庫補助金を導入するなど力を入れることになった。
 しかし、この頃になり横浜水道が現実のものとなるようになってくると、長崎、神戸、東京などで私立による水道敷設の動きが出てきたため、一日でも早く水道を敷設すべきであると考えていた内務省の意向を踏まえ政府は6月17日閣議を開き「水道敷設の目的を一定する件」を閣議決定した。これは、水道の敷設は地方政府によって行い、経費は地方税によることを原則とすること、止むを得ない事情により、私立会社によらなければ敷設できない場合には、例外的に地方政府の監督の下で会社組織による経営を認めることを趣旨としたものである。
 しかし、法制局では公営優先にすべきであると主張して政府部内でも大きな議論に発展した。そして、民営論を含む多くの議論の結果、明治23年2月に公布された水道条令では、「水道ハ市町村其公費ヲ以テスルニ非サレハ之ヲ敷設スルコトヲ得ス」と市町村の公営とすることが決められたのである。

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近代上下水道の夜明け前 (その4) 2010年5月 掲載

 永井久一郎の折衝で国の招請に応じたバルトンは、明治20年5月に来日して帝国大学工科大学土木工学科で衛生工学講座の初代教授を務め、名古屋の上田敏郎、神戸の佐野藤次郎、台湾の浜野弥四郎など多くの優秀な技術者を輩出すると共に、翌年から内務省の顧問技師を兼務した。

バルトン バルトン
 バルトンは1856年英国のスコットランド、エディンバラで生まれ、キングス大学で衛生工学を修めた人で、明治27年に発刊した「都市の給水と水道施設の建設」という英文の専門書は当時の日本の技術者の教科書として広く使用されたようである。
 バルトンは内務省の顧問技師として神戸市(明治25年)、仙台市(明治26年)、名古屋市(同)、広島市(明治27年)、ほか福岡市、門司市、下関市、などの要請で水道計画にあたった。
 神戸市、広島市などでは彼の計画した水道が敷設されたが、名古屋市、仙台市などでは財政上や技術上の理由で着工が延期されている。
 函館水道は明治21年6月に着工して明治22年12月に完成している。この水道は本邦人最初の設計者である平井清二郎によるもので、後に北海道庁を設計した人である。また、長崎水道は吉村技師の設計で明治22年4月に着工して明治24年3月に竣工している。
 このように、横浜、函館、長崎の水道は条令の公布前に起工されたため、条例に基づく認可は受けていない。東京は明治23年7月に内閣総理大臣の認可を受けているが、内務省直轄で計画されたため、条例による認可は受けておらず、条例が適用されたのは明治23年10月認可の大阪市からである。
 明治29年バルトンは後藤新平の要請を受け一番弟子の浜野弥四郎を帯同し台湾にわたり、台北や基隆で水道の上下水道の建設にあたったが、風土病に侵され明治32年東京で死亡した。
中島鋭治 中島鋭治
 また、近代上下水道の建設に大きな影響を与えた日本人では中島鋭治を忘れることが出来ない。中島は1886年米国に留学し、バルトンの跡を継いで東京大学衛生工学講座の教授さらに内務省の顧問技師になり、1907年には名古屋市の技術顧問にもなっている。そして、彼の教えを受けた門下生は、大井清一(京都大学)、西田精(九州大学)、倉塚良夫(北海道大学)、草間偉(東京大学)らの学者や名古屋の茂庭忠次郎、米本晋一、西大條覚らの実践的技術者を輩出している。
 一方、下水道は農を持って基本としてきたわが国では、し尿を有力な肥料として有償化し、河川や溝渠に流出することはなかったので遅々として進まなかった。しかし、明治14年には横浜の新市街地で、明治17年には東京銀座が近代都市として整備されるに伴い、また、明治27年には大阪でコレラ流行に端を発して着手し、レンガ造や陶管による下水排除を目的とした下水道に着手されるようになった。
 明治33年になり、政府は雨水排除と停滞した汚水による環境の悪化に対処するため下水道法が制定したが、それ以後、仙台、名古屋、広島でも下水道に着手するようになった。


都市の近代水道給水開始年月日

都市名 給水開始年月日 都市名 給水開始年月日
横浜市 明治20年10月 青森市 明治42年12月
函館市 明治22年 9月 高崎市 明治43年 1月
長崎市 明治24年 5月 堺 市 明治43年 4月
大阪市 明治28年11月 水戸市 明治43年 7月
東京市 明治31年12月 新潟市 明治43年10月
広島市 明治32年 1月 京都市 明治45年 4月
神戸市 明治32年 5月 甲府市 大正 2年 1月
岡山市 明治38年 7月 小倉市 大正 2年 5月
下関市 明治38年 7月 名古屋市 大正 3年 9月

 このようにわが国の上下水道は三府五港から発展し、バルトンや中島鋭治の教育した優秀な多くの技術者によってその他の主要都市へと広がっていったのである。
 また、その基礎となったものは、長与専斎と永井久一郎が、国家の制度として厚生事業の中で上下水道を取り上げ、国民の安全・安心のための施設として法的整備をしていったからに他ならない。
 しかし、現在ではこうした業績は忘れられた感があり、特に永井久一郎は尾張藩出身のため明治政府では文部省会計局長までにしかなれず、明治30年に日本郵船KKに入社している。
 このように、上下水道事業の発展に尽くした郷土の隠れた偉人がいたことを私たちは誇りとしたいものである。

(おわり)

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