味噌川ダム由来記
NHKスペシャルのシリーズ、「人体」タモリ×山中伸弥の人体神秘の巨大ネットワークで、最先端技術により徹底的に脳をスキャンして内部を走る電気信号の様子を映像化し「ひらめき」の正体を明らかにしていた。
名古屋水道取水口位置図
しかしながら、水道百年の歴史の中でその危機を迎えたことがしばしばあり、これを振り返ることも先人たちの努力に報いる事であろう。
名古屋水道取水口位置図
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【鍋屋上野浄水場系】
大正3年、給水開始をした鍋屋上野浄水場系では、犬山城の直下に築造された犬山取水口(現在不使用)から原水を取水していた。
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当初は犬山から鍋屋上野浄水場まで自然流下で送水しており、犬山取水口での木曽川の水位は鍋屋上野浄水場まで流下させるのに十分な水位であった。また、給水量も急速な伸びはなく安定的に取水できていたのである。
しかしながら、大正13年になり、木曽川に大井ダムが建設された。ダムからは電力の需要に応じて水を放流したため、河川の水位はダムの放流により40㎝~60㎝(宮田用水史)変化したようだ。このため、農業団体から農業用水の取水が困難になったとして反対運動が起きていた。
当然、本市水道としても取水位が急激に変化したのであれば影響を受けていたはずであり、昭和3年に第4期拡張事業計画を作成した時、取水場の現況を次のように述べている。(名古屋市水道百年史)
ア、取水場上流の水質悪化
犬山地方の発展により、下水汚水は合瀬川悪水と合流して、取水場から約100m上流において木曽川本流に入り、原水の水質を著しく汚染しつつあった。
イ、木曽川の流れの変化
水力発電所の建設などにより、木曽川本流の水深を変化させるだけでなく、流心の移動を招き、取水場前面の寄洲が徐々に隆起下向して取水口の閉塞が危惧される状態であった。
(第1回取水口位置変更)
このような状況を踏まえて、第4期事業においては犬山城の下にある創設期の取水口から約1,400m上流の左岸の犬山市官林地内に、取水口(現在の第2取水口)を建設することにし、人口200万人に対する所要水量毎秒3.62㎥を取り入れるに十分な施設としたのである。
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このようにして新取水口では安定的に取水できていたが、この取水口でも、年々水位低下が起こっていた。昭和25年から昭和31年までの7年間に68㎝も水位が低下しており、鍋屋上野浄水場での実際の着水量は1日当たり3万㎥も減少していたのである。
名古屋市水道100年史では「上流にダムが建設されたことにより土砂の流出が減少して益々河床を低下させていた。」と書かれている。当該取水口地点の河川は岩礁で形成され、取水口前面、河川の中央付近の下流側に巨大な岩礁があり、河川の水位を押し上げていた良好な取水地点であったが、気が付いてみると、巨大な岩礁はなくなっていたのである。
これは、長年の度重なる洪水によって次第に削られていったとも考えられるが、当時囁かれていたのは、木曽川の遊船が安全就航のため、木曽川の岩礁を爆破しており、その際、取水口前面の岩礁も爆破されたためだと言われていたが確証はない。
(第2回取水口位置変更)
この頃、農業用水は同様に水位低下によって取水が困難になってきたこともあり、更に愛知用水事業の木曽川上流での取水に対し反発していたため、これに対して農林省が犬山頭首工の建設を計画し、名古屋市水道もこれに参加するよう要請されていた。
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しかし、その事業を待っていると取水不可能になる恐れがあったため名古屋市独自で新たに取水口を建設することにしたのである。
この新しい取水口(現在の第1取水口)は、更に1200m上流の犬山市継鹿尾地内に建設されることになり、昭和32年8月から、延長1145mの隧道を突貫工事で施工して昭和33年6月28日午後3時に通水を完了させた。
この工事により、危機に瀕していたこの年も給水制限をすることなく最大給水量を確保することが出来たのである。
その後、昭和41年には農林省により犬山頭首工が完成し、取水口の水位は安定することになり、更に昭和51年から岩屋ダムからの水源を取水するため、官林地内の取水口を愛知県の尾張水道と共同で改築した。このため、将来にわたって大渇水がない限り必要かつ十分な原水を確保出来ることとなったのである。
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【大治浄水場系】
大治浄水場系では、昭和14年に第5期拡張事業として、中島郡朝日村に取水口(朝日取水口)が建設されることになった。木曽川は内務省の所管であるので取水口の建設と共に河川の低水工事も内務省名古屋土木出張所に委託して工事が行われた。
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低水工事とは、低水路(通常水の流れている箇所)において、就航や利水のための取水が円滑に行われるようにするための工事である。
朝日取水口付近では、澪筋が右岸や左岸に蛇行しないよう、河川を浚渫して導流堤を上下流4kmにわたり施工したようである。現在、新幹線の木曽川鉄橋から朝日取水口の方を見ると川の中に川に並行して雑木が生えているがその名残であろう。
木曽川はこの辺りでも、ダムの影響で上流からの土砂の補給が減少し、更に、戦後復興期に大量の砂が採集されたため、年々河床低下による水位低下が生じていた。そして、昭和40年代には取水に支障が生ずる恐れが出てきたため、沈砂池に常時排砂出来るよう排砂設備を設置して水位低下に備えていた。また、昭和43年に第2ポンプ所、昭和44年と46年には第1ポンプ所のポンプのサクション管をポンプ井底に限界まで延ばす工事を行った。
しかしながら、水位低下は止まらないため、河川の縦横断の測量を行ったところ取水口の下流100m位の所から急に河床が深くなっており、次第に取水口に迫ってくる恐れがあることが分かった。
この深い澪筋が取水口に達すると取水不能となるので、この箇所に粗朶沈床(束ねた小枝と玉石を使い河底が洗掘されないようにする河川根固工法の一つ)を施工して澪筋が取水口に近づかないように工事をすることにした。
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当時、朝日取水口では、既得の水利権では取水量が不足していたため、毎年下流の河川利用者の承諾を得ながら、暫定水利権で凌いでいた時代であった。このため、工事を建設省に申請したが、取水口付近で工事を行うと、下流の河川利用者が名古屋市は取水量を増加するのではないかとして、反対運動でもされる恐れがあるとして許可されなかった。
しかし、実際に権利のある水利権量も取水できなくなることを説明し、何度も建設省の係官の現地視察を受け、最終的には昭和15年頃施工した低水工事の補修工事として施工することを認められたのである。
その後、朝日取水口は昭和58年に木曽川総合用水事業による木曽川大堰の完成により、水位は安定し取水不能になる恐れはなくなった。
このように給水開始以来、幾度となく取水量を確保出来ない恐れが生じてきたが、先人たちの先見性と努力によって安定的に取水出来たものと思っている。
(栗田資夫)