導水路異聞

 名古屋市の水道は、木曽川から取水していますが、犬山取水口から鍋屋上野浄水場までの22km余の導水路は、一直線ではなく、幅員も必要最小限しか確保出来ていない個所もあれば、十分余裕のある区間もあり、また不規則な用地もあって買収時に苦労をした後がうかがえます。
 そして、創設期は木曽川から鳥居松沈殿池までは、ほとんどがコンクリートブロック張りの開水路でした。

創設期の導水路
創設期の導水路

 こうした事から、沿線の農家は雨の少ない時などには畠などの給水に利用したり、また、当時は田畑の肥料として糞尿が使われていたので、この肥桶なども導水路で洗っていたようです。
 これに憂慮した水道局では、犬山から鳥居松沈殿池間に5個所の巡視詰所を設け常に巡視していたのです。しかし、導水路は約15キロメートルもあり、完全に防ぐことはできなかったようです。また、堤体も道路としても利用されるようになると、住宅も建ちはじめたところもあり、住宅の生活排水も導水路に流れ込むようになりました。汚染された水量は、原水量に比べ微々たるもので、浄水場で安全な水道水に浄化され供給されますが、イメージとしては良いものではありません。
 このため、第四期拡張事業では、導水路が地盤沈下し流量が減少したため全線にわたりコンクリートブロックの嵩上げ工事を行いましたが、このとき衛生及び維持管理面から全面コンクリート製の覆蓋が設置されました。
 導水路の沿線近くに住んでいた人の話では、戦時中に米軍の空襲から導水路を守るため、小学校生の時、学校で草刈りの勤労奉仕があり、この草で導水路の上を覆う作業を行ったようです。軍の命令だとは思われますが沿線住民の人達にもこのように導水路は長い間見守られてきたのです。
 さらに、全体が管路になったのは、昭和40年代になってからのことですが、この工事の際、ある地域では、「当初、導水路の建設は水を利用できるから認めたのであって管路にするのは反対である。」と問題になりましたので、引水できる施設を整備することで解決しました。
 昭和50年代になり、名古屋市緑道整備基本計画にもとづき、導水路は庄内川左岸から鍋屋上野浄水場まで「すいどうみち緑道」として整備されました。
 その後、鳥居松沈殿池下流の導水路に春日井ライオンズクラブから寄付をうけて桜の木が植えられた区間もありましたが、昭和天皇在位60年記念事業として、愛知県が犬山取水ポンプ所から庄内川右岸まで約20kmを「尾張広域緑道」として整備し平成元年に供用開始しました。
 緑道には樹木が植えられ、遊歩道が整備され、遊具やスポーツ施設が設置されるなどしております。また、緑道に隣接した小牧市本庄にはスポーツ関連施設を有するフレッシュパークも造られ、緑道と一体となって利用されています。

覆蓋された導水路
覆蓋された導水路

 一方、大治系では、昭和12年、第5期拡張事業を行うことになりました。当時名古屋市には北部と南部に軍事工場があっため、非常時の対策として犬山系とは別に木曽川の水を中島郡朝日村で取水し、海部郡大治村に浄水場を設置して西のほうから市内に給水する浄水場の建設にかかりました。
 朝日取水口から大治浄水場まで、導水路は幅員11.6m、距離約17kmを直線で結び、浄水場も6万坪の用地を買収しました。

大治系導水路
大治系導水路

 導水路用地は田畑を分断し、部落も点在していましたが、補償費を払って立ち退いていただき直線にしたのです。
 浄水場用地は多くの農家が所有しており中には土地に対する執着がつよい農民もいて買収が難しかったようです。しかし、この事業は国策の一環でもあり、買収には強引な面もあったようです。
 昭和14年6月1日、大治浄水場で起工式が開催されることになりましたが、早朝、準備のため会場に行った職員が、式場までの新設道路に撒かれた大量の糞尿を発見したそうです。誰が撒いたか分かりませんが、恐らく用地買収に不満を持った人々が撒いたものと思われます。
 とにかく、午前10時の式典開催はじめまでにその除去作業を行い式典には支障は出ませんでした。しかし、若干臭気は残っていたようですが、当時の農村はそのような臭気が漂っていましたので事件には誰も気づかなかったそうです。
 導水路は、昭和52年に中部日本新聞社の提唱により、愛知青少年協会が日本自転車振興会の競輪共益資金の補助を受け、「尾張サイクリングロード」として15kmを整備しました。しかし、河川・鉄道・高速道路などに遮断されている箇所があり迂回を余儀なくされるところから、利用状況もよくなく、平成18年に廃止されております。
   

                           栗田 資夫