明眼水

尾張名所図会
五大山安養寺明眼院(尾張名所図会より)
多宝塔
多宝塔

 名古屋市の西半分の地域に水道水を送っている大治浄水場は、海部郡大治町にあります。
この浄水場の南、大治町役場に隣接して「馬島薬師(まじまやくし)・明眼院(みょうげんいん)」という古いお寺があります。
 この「明眼院」が日本最古の眼科医発祥の地であり、およそ500年にわたってその名声を天下にとどろかしたことを知る人は多くありません。
 今から約1200年前、平安時代のはじめに、聖円上人(伝教大師の弟子)という人によって開かれたお寺である明眼院は、延文2年(1357年)に清眼というお坊さんが初めて眼病の治療をしたところです。
 その治療法は、馬島流眼科といって、蘭学を応用して明治の初め頃まで営々と続けられたということです。
 境内にある井戸の水は、目を洗うのに使われたことから「明眼水(みょうげんすい)」と名付けられました。

庭園
小堀遠州ゆかりの庭園

 その後、仏法を学ぶ学校としても栄えたこともあり、名声は全国に広まり、目の病に悩む人々が集まってきて大きな治療所となりました。徳川時代には全国から集まってくる病人のための治療所は10以上にもなり、門前には茶屋や宿舎が並ぶ賑やかなところとなりました。
 画家の円山応挙が治療に訪れてその記念に襖障子に画を描いたり、茶人小堀遠州も病気治療に訪れ庭を修築したこともありました。
 寛永9年(1632年)、後水尾天皇の三の宮様が眼病にかかられ、京洛(京都)の名医も手を放したけれど、ここの住持が治療にあたったところ回復されたり、桃園天皇の二の宮様の眼病をなおしたりで、勅願所(天皇の命による祈願のために建てられた寺)となりました。津島街道から寺に入る参道の入り口に「後水尾天皇 桃園天皇 勅願所 五大山明眼院」という石碑が立っています。

石碑
石  碑

 当時の寺の様子は、尾張名所図会に描かれています。現在の寺の何倍もの広大な敷地に、車寄の付いた客殿、書院、いくつかの治療所などが建ち並び、門前の賑わいなどもうかがえます。
 しかし、この寺は明治維新以降、神仏分離や医事法の制定で僧医(僧侶が医師としての医療行為を行うこと)が禁止されたことなどから衰退の途をたどってきたようです。
 昭和57年発行の水道局季刊紙「水道クォータリー」に掲載されていた明眼水の井戸は 今回の取材では、残念ながら廃材の中に埋もれていました。
 東京国立博物館にある「応挙館」は、寛保2年(1742年)に建てられた寺の書院が衰微期に買い取られ移築されたものです。現在、この寺に残っている古い建物としては、尾張名所図会にも描いてある「多宝塔」(ただし2層構造の上重は欠落している)だけのようです。

キリシタン灯篭
キリシタン灯篭

 寺の裏には大きな池を囲んだ庭園があり、往時を偲ばせるものでした。その脇には、治療に訪れたキリシタンが幕府や尾張藩の迫害を逃れて寄贈したという「キリシタン灯籠」が立っていました。
 昔、仁王門の中から睨みをきかせていた運慶作と伝わる仁王像は、今は仮の囲いの中に立っていましたが、損壊が激しく、割れ目をいくつもの鎹で留めたりした気の毒なお姿でした。
 しかし、こうした地元の貴重な財産を活用しようとする動きもあります。大治町の街おこしをしようというボランティア団体が、寺の庭園の草刈をしたり、近辺の商店街の活性化策を模索したりと色々と活動を始めているようです。こうした動きに期待をしたいと思いました。

明眼水の井戸
廃材の中に埋もれる「明眼水の井戸」

 司馬遼太郎が週刊誌に25年間連載していた「街道をゆく」シリーズの絶筆となった第43巻「濃尾参州記」に「明眼院」に関する記述があります。その中で「日本眼科学史」という書物を引用して「馬島流眼科を語ることはすなわち日本眼科史を語ることだ」と述べておりました。「明眼院」から始まった眼科医の伝統は今も脈々と続いているようです。

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明眼院への地図

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