願興寺と大寺瞽女

願興寺全景
願興寺

 岐阜県南東部にある御嵩町の名鉄広見線終点御嵩駅のすぐ近くに、蟹薬師あるいは可児大寺の名で知られる願興寺があります。願興寺にはこんな話しが伝わっています。
 願興寺は、弘仁6年(815年)この地に逗留した伝教大師最澄が布施屋(宿泊所)を造り、自ら桜の大木から薬師如来像を刻んで安置したのがはじまりです。
 その後、正暦4年(993年)一条天皇の妹である行智尼がこの地に住み、朝夕、最澄の刻んだ薬師如来像を礼拝しておりました。
 ある時、庵から少し離れたところにある尼ヶ池と呼ばれる大きな池から光が四方に輝きました。
 行智尼がそこで読経を行ったところ、不思議なことに1寸8分(約6cm)の金色に輝く薬師如来像が数千、数万の蟹の背に乗って現れました。
 行智尼は、この薬師如来像を丁重に迎え、布施屋の薬師如来像とともに日々供養礼拝しておりました。

 さて、行智尼には京都から連れてきた3人の侍女がそばに仕えておりましたが、この不思議な金色の薬師如来像をぜひ拝んでみたいと、決して開けてはいけないと行智尼から戒められていた厨子の扉を開けてしまいました。そのあまりのまぶしさに思わず閉ざした3人の目は、それっきり開かなくなってしまい、行智尼が念仏を唱えてもかないませんでした。
「私が悪かった。薬師如来様を安置したてまつるのに、まことにうかつなことでした。布施屋の薬師本尊様の胎内にお納めさせていただかなければなりませんでした。」そう言って行智尼は本尊の胎内に納め、信仰するようにし、目の見えなくなった3人の侍女に、幼い頃習った楽器の演奏を、手を取って教えておりました。

本陣跡
尼ヶ池跡
尼ヶ池跡


 こうした出来事が一条天皇の耳にも達し、勅令により長徳4年(998年)七堂伽藍が建立され、大寺山願興寺として美濃国の各地から信仰を集める大寺院となりました。
 3人の侍女は、薬師様を讃える歌をうたいながら三味線を弾き、近辺の村の家々を回りました。大寺瞽女(ごぜ)といって、大正の終わり頃まで、目の見えない女の人が門付け(家の門口に立って、音曲を奏で、金品などをうけとること)をして歩いたそうですが、この3人の侍女がその始まりといわれています。
 大寺瞽女(地元では「ごじょさ」と呼ばれていた)達は、大正時代までは、代々、寺の近辺に住んでいたようで、寺の東にも彼女達の家があったと、寺の掃除をしている女性が話してくれました。

 蟹の背に乗って金色の薬師像が現れたという尼ヶ池は、寺から1kmほど南西のところにあり、小字名として残っています。昔は大きな池だったようですが、今は田んぼの中に「尼ヶ池跡」と刻んだ石碑が残っているだけでした。

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住所:岐阜県可児郡御嵩町

願興寺への地図

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尼ヶ池跡
尼ヶ池跡