西尾武喜さんと新潟地震
水問題研究所 顧問 栗田資夫
昭和39年6月16日13時1分に新潟県沖を震源とするM7.5の地震が発生し、新潟市に多大の被害が発生した。当時私は名古屋市水道局工業用水課に所属していたが、退庁時間ごろには、新潟市が壊滅的な被害を受けたことが分かってきて、水道局でも局長室あたりが慌ただしくなってきた。
新潟県は以前、日本水道協会の東北地方支部に属していたが、何かの事情があって中部地方支部に変わったようで、こうしたことからも中部地方支部として強力な援助活動をしなければならないようなことが話されていたようだ。
水道協会中部地方支部水道復旧工作隊
その日のうちに情報収集と復旧応援の打ち合わせをするために拡張課長が車で新潟市に派遣され、17日には応急給水隊が派遣された。
その後、水道協会中部地方支部水道復旧工作隊が構成されることになった。工作隊の隊長は給配水工事のベテランである配水事務所の所長あたりが行くのではないかと思われていた。
しかし、当時施設課長だった西尾さんが隊長に選ばれて行くことになった。本人も意外だったようであったが、24日に本隊は出発した。
選ばれた理由を考えると、一番若い課長ということくらいだった。西尾さんは、これまで本庁中心で活躍してきており、給配水工事については経験がなかったからである。
地震被害 |
西尾さんは浅井岈一局長の時に係長経験3年で課長に昇進した最も若い将来を嘱望された課長であった。しかし局長が交代すると、工業用水課長の時代には、工業用水道の第2期計画の終息案もことごとく反対され、施設課長になってからも、設計書がなかなか決裁してもらえず、決裁箱に積まれた設計書を眺め意気消沈していた時代でもあった。
新潟市に派遣された隊員は、他都市の職員も含まれていたが、名古屋市の職員が中心で、配水事務所や業務所の係長、技師、業務技師達だった。昭和32年から採用はじめた養成工が働き盛りになっており、優秀な職員が選ばれていたと思っている。その中には所長や係長が持て余していた親分肌の技師、業務技師がいたのも事実である。
現地での復旧作業はどのように行われたのか分からないが、西尾隊長は早急に市民に給水するため路上配管をして対応させた。しかし、すぐに通行の支障となり、地下配管に変更したと言っていた。このあたりは道路事情の経験が不足していたからだろう。ただ、復旧した給配水管の図面は整理して新潟市に渡すように指導していたようで、図面を作成してくれたのは名古屋市だけだと喜ばれたと話していた。
また、西尾隊長は毎日のように新潟市水道局の局長室に報告に行き、帰りには陣中見舞いに届いていた酒を二・三本下げて帰ってくるのが日課だったとも言っていた。ほかの人が隊長だったらこのように振る舞えただろうか。以前から西尾さんは要領のいい、物怖じしない人だと思っていた。
私は昭和33年に水道局に採用され、最初に配属されたのが工業用水調査室で西尾さんは室の調査係長だった。当時、西尾さんはいつも始業時間ぎりぎりに出勤してくるのだが、私が出勤するとすでに机に座っていることがある。「今日は早いですね」と言うと、遅れそうな日は、桜本町の電停で浅井局長の車が通過する時間帯に見つかるように立っているのだそうである。そうすると止まって乗せてくれるのだそうだ。浅井局長に信任の厚い人ではあるが、こうした事から要領のいい度胸のある人だと感じていたのである。私が遅刻するような状態だったら見つからないように隠れていただろう。
持ち帰った新潟のうまい酒を復旧応援で疲れた職員と毎夕食時に飲んで英気を養っていたようだし、時には町に繰り出し、職員と時を忘れて飲んでいたようだ。
浄水場被害調査 |
西尾さんが市長になってから一緒に新潟市に行く機会があり、当時のなじみのスナックにお供をしたが、その様子から当時が偲ばれた。
西尾さんはそれまで拡張課勤務がほとんどで、配水事務所や業務所の職員にはなじみはあまりなく、また当時は技師などの部間異動があまり多くなかったので、この機会が配水事務所や業務所の職員に初お目見得だったと言ってもいい。
勤務時間中は厳しい人だが、時間外になると百八十度転換して、上下隔たりなく飲み、かつ語って愉快に過ごす人である。当時こうした上司は珍しく、初めて接した人は西尾さんの人柄に親しみを感じていったのだろう。これまで気に入らないと上司に反抗していたような連中も西尾氏を親分として慕うようになったのではないだろうか。新潟での復旧応援は約1月間で終わり帰名した。
その後、西尾さんは下水部計画課長を経て、杉原局長の時代には上水部配水課長になり、配水事務所を統括するようになった。
当時は労働組合も強く、配水事務所での新しい仕事や夜勤の体制などに労働組合が反対して難しいこともあった。しかし、西尾さんが配水課長になってからは労使トラブルが表面に出て大きな問題となることはなく収めた。それは、各配水事務所の情報を常に持ち、西尾さんの協力者がいたからだと思っている。新潟から帰っても時々仲間たちと旧交を温めていたようだ。時には配水事務所長が所属の事で知らない事まで配水課長は知っていることが多々あった。
このような西尾さんの評判は配水事務所のみならず、水道局内に広がっていったのである。
昭和42年の年末に木曽川に某工場からフェノールが流出し、大治浄水場から臭気のある水道水が給水されたことがあった。この時大治浄水場では活性炭を人力で投入して臭気の除去作業を行ったが、労務問題が起きて場長一人では対応できないような状態になったことがあった。
この時、本来ならば浄水場の統括課長である浄水課長が対応すべきであるが、なぜか配水課長の西尾さんが浄水場に行って収めてきたのである。こうなると、局内で何か起こると局長や部長から「西尾君」、「西尾君」と声がかかり多くのことを任されるようになっていった。
局の重要な決済書を部長の所へ持っていくと、配水課長には関係のない事項にも「西尾君の意見を聞いたか。」とか「西尾君は何が言っていたか。」というような部長もいて、どちらが偉い人か分からないような状態になっていた。
こうして局の難しい仕事や事故を処理していくにつれて必然的に階段を上るように短期間に部長、技監、局長、に昇進していったのである。
その後、西尾さんは助役になり本山市長の跡を継いで市長選挙に出馬した。
この時、西尾さんを慕う現場の職員たちが中心になり、毎日のように夜の演説会場に「おやじがんばれ」の旗を持って応援に行っていた。
そして昭和60年、西尾さんは第19代名古屋市長に就任した。
西尾さんが偉くなったのはこれがすべてではないが、ある一面はこうした人柄により多くの職員の支持を得たからだと思っており、新潟地震は西尾さんに転機を与えたと言っても過言ではないと思っている。
西尾さんは市長になられてからも、水に係わる問題について思いは熱く、水道、下水道をはじめ都市における水問題に対処するため、官と民の連携、事業に当る職員の知識・技術の向上と継承の場が必要であるとして、昭和62年5月にこの「水問題研究所」を設立された。
平成29年に当研究所は30周年を迎えることになった。残念ながら西尾さんは平成18年8月に亡くなられたので、我々はこの事業を引き継ぎ発展させることが西尾さんの意思に沿うものであると思い努力しているところである。