郡上市

郡上八幡城

 郡上踊りで有名な郡上市は長良川上流域にある城下町です。市の北東にある八幡山の上に市街地を見下ろすように立つ八幡城は町のどこからでも見上げることができ、市民に町のシンボルとして親しまれています。

郡上八幡城

 戦国時代末期の1559年、遠藤盛数が、当時郡上一円を支配していた東(とう)氏を滅ぼして八幡山にお城を築いたのが八幡城の始まりです。
 その後の戦乱により城主は遠藤氏、稲葉氏、遠藤氏、井上氏、金森氏、青山氏とめまぐるしく入れ替わり、明治維新までの300余年に19代を数えました。
八幡城  その間、お城も天守や二の丸が建造され、今の形になったといわれます。
 明治維新を迎えて廃藩置県により廃城となり明治4年石垣のみを残して取り壊されました。
 昭和8年、天守閣、隅櫓、高塀が再建されました。4層5階建て木造建築で、木造の再建城としては日本最古だそうです。
 現在の天守は大垣城を参考に造られており、内部は歴史資料館として利用されています。城からは眼下に奥美濃の山々に囲まれて流れる吉田川と小京都といわれる城下町のたたずまいが眺められ、とても美しい景色です。
 山麓の御殿跡の城山公園には山内一豊と妻千代の像があります。「馬十両」の逸話をイメージした高さ5メートルあまりの巨大な銅像です。
銅像  賢婦人として名高い千代については近江国、若宮喜助の娘という説と郡上八幡城初代藩主遠藤盛数の娘という説がありましたが、近年、史料調査の結果千代が郡上八幡ゆかりの女性であることが明確になり遠藤盛数の娘というのが定説となったようです。
 また、天守閣の裏手には「凌霜隊」の由緒書きの石碑が建てられています。
 明治維新の前夜、当時の郡上藩主青山幸宜(14歳)が勤王か佐幕か、郡上藩を守るための選択をせまられているなか、江戸詰の藩士45名は徳川家の恩顧に報いるべく家老の息子17歳の朝比奈茂吉を隊長に、「凌霜隊」を結成、脱藩をして会津応援に向かったのです。

凌霜隊
凌霜隊石碑

 途中激烈な戦闘を繰り返しつつ艱難辛苦の末若松城に入城して白虎隊とともに戦いましたが時に利あらず降伏城明け渡しとなりました。
 郡上藩は無事戻った隊士を労をねぎらうことなく全員反逆者として収監をしました。
 皆が許されて自由の身になったのは明治3年でした。
 幕末から明治にかけての激動する時代の波にこのような小さな藩も翻弄されたことを知り、改めてこの時代を真剣に生きた若者達の心にふれたような気がします。

 天守直下の駐車場までは車でも行けます。一方通行になっていますが、狭い道で登坂の急カーブが連続するので大きな車は避けた方が良いでしょう。歩いても山麓の駐車場から15分くらいです。


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宗祇水

宗祇水  長良川の上流部、郡上八幡には環境省選定「日本名水百選」に指定された宗祇水があります。

 格子づくりの家々の軒下を清らかな用水が流れ、湧水も多くあるなかで、この泉が郡上八幡のシンボルとなったのは、500年以上前の古今伝授の故事を伝える史跡としても有名であるからでしょう。
宗祇水
 室町時代の郡上の領主、東常縁(とうのつねより)は、藤原定家の流れを継ぐすぐれた歌人で、当時将軍に古今和歌集を講じたともいわれております。
 1471年、連歌師の宗祇(そうぎ)は、常縁を師と選び、郡上八幡の泉の近くに庵を構え、常縁のもとに通って古今和歌集の教えを受けました。
 古今伝授とは、古今和歌集のなかの語句の解釈に関する秘説などを、特定の人に伝授することで、宗祇に伝えられたのが初めとされています。
 3年ほどして去る宗祇を、常縁は、この泉のあたりまで送り、餞別の歌を贈りました。

もみじ葉の 流るる龍田 白雲の 花のみよし野 思い忘るな  常縁
三年ごし 心をつくす 思い川 春立つ沢に 湧き出づるかな  宗祇

宗祇水
やなか水のこみち

 その後この泉は、三層の水舟として整備され、上段は飲料水、中段は野菜洗い、下段はさらし場として、この地方特有の水利用システムとして、地域で利用されてきました。
 現在では湧き出す水の上部に祠が祀られて訪れる人々も多く昔と変わらぬ清泉を味わっている姿がみられます。


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住所:岐阜県郡上市八幡町
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粥川の鰻

星の宮神社

星の宮神社

 今から1000年ほど昔、美並村(現在は郡上市美並町)にある瓢ヶ岳(ふくべがたけ)に妖鬼が住み、人々を悩ましていました。
 その話を聞いた都の帝は、関白太政大臣藤原師輔の八男藤原高光を、妖鬼退治に遣わされました。
 高光は都からはるばるこの地にやってきたものの鬼をなかなか退治できませんでした。
 そこで高光は、幼い頃からの守り仏である虚空蔵菩薩に祈願したところ、「雁股鏑矢の矢を使うように」お告げがあり、見事妖鬼を退治することができました。
矢納が淵
 高光は、虚空蔵菩薩をおまつりした星宮神社に弓を納め、その脇を流れる粥川(かいがわ)の滝に矢を納めたので矢納めの滝といい、淵を矢納が淵(やとうがふち)と言うようになりました。
 鬼退治に際し、山に分け入り道に迷ったとき、粥川の鰻の道案内で山頂に着くことができたことから、高光は、鰻を矢納が淵に放ち、神の使いだから大切にするよう命じました。
 それ以来、今日までそれを守り続け、大正13年国の天然記念物に指定されました。
矢納が淵  この地域の人々は鰻を一切食べない習慣があります。
 粥川は長良川の支流で、美並町において長良川に注ぐ河川です。
 粥川を上流にさかのぼると、伝説にある神秘的な淵、矢納が淵があります。
 このあたりは、平安時代の初め頃から星の宮神社を中心に原始修験道があり、いまも当時の信仰の様子が偲ばれる社寺、多くの経文、仏像などの文化財が残されています。
 また、円空の出生・修行のゆかりの地と言われており、美並ふるさと館では、円空の作品が多数展示されています。
矢納の滝

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住所:岐阜県郡上市美並町

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