味噌川ダム由来記

NHKスペシャルのシリーズ、「人体」タモリ×山中伸弥の人体神秘の巨大ネットワークで、最先端技術により徹底的に脳をスキャンして内部を走る電気信号の様子を映像化し「ひらめき」の正体を明らかにしていた。

名古屋水道取水口塔位置図
名古屋水道取水口位置図

ノーベル賞の受賞者でもある山中伸弥教授は「理論整然と一生懸命考えても思いつかない事も、ふとした時に「ひらめき」があり研究のきっかけになることが良くある。この「ひらめき」も脳の働きの一つであることが理論的にも証明される」と話されていた。  そこで私もある事がひらめいた。「味噌川ダムは彼のひらめきで出来たものだ」と! 名古屋市の水道は戦後の復興と共に需要量は毎年のように増加し続け、昭和39年頃の夏期には既得の水利権をオーバーしかねない状況になっていた。 このため名古屋市は将来のダムに参加することを条件に毎年のように暫定水利権をお願いし、昭和40年度からその年度に必要な水量を暫定的に許可され、それにより断水を切り抜けてきていた。 このような状況のもとで、昭和43年当時、岩屋ダムに続く水源開発はまだ不明瞭な状態であり、将来の水源開発に不安があった。 このため木曽川水系において都市用水と電源開発との関連において総合的に開発を行う事が合理的であると考え、名古屋通産局、愛知県、名古屋市、関西電力、中部電力の五者で「愛知県地域利水対策協議会」を設立した。  これは木曽川水系において水力発電開発の先駆者でもあった中部電力、関西電力がこれまで調査してきたダム地点を利水の見地から見直すと共に、電力単独では成立しなかった事業も利水が参加することにより、事業として成立しないかなど総合的に調査しようとするものである。 この調査で対象になった地点は王滝川支流の西野川、付知川では3カ所の地点、白川では2地点、佐見川等であったが、地質調査の結果ダム建設には地盤に問題があったり、水没家屋が100戸を超えるなどの課題があり、ダムを開発することは困難であるとの結論が出ていた。 そして、最後に残っていたのは、恵那市で木曽川に合流する阿木川と木曽福島町で合流する黒川のみになっていた。 阿木川地区では問題なく地質調査に入れたが、黒川地区については調査を申し入れたところ、すぐダム建設対策同盟ができ調査に入ることはできなかった。 黒川流域には木曽福島から開田高原に行く道があり、現在は黒川に沿った道路が整備され地蔵トンネルが出来て、比較的平坦な道路となったが、当時は黒川支流の西洞川の上流にある唐沢の滝付近から九十九折りの道で地蔵峠を越え開田高原にいく道路があるだけの過疎地だった。 私はここにダムが建設されると、開田高原と一体となって、一大観光地になるであろうと期待していた。 しかし、黒川沿いの民家の壁には、ダム反対と大きな字が書かれ、現地を訪れても、何か物々しい感じを受けるような状態だった。 木曽福島町からは黒川地区の開発計画書も出され、既にこの地区は将来の開発計画が決まっているのだと言うような話もあった。 この交渉のため、木曽福島町にしばしば出かけて交渉にあたっていたのが名古屋通産局の技官であった秋山さんだった。 私が30代後半の頃、秋山さんは定年退職が近いと感じるような、背は高く痩せていて飄々とした感じの人だった。 現在では、リュックサックを背負った人は珍しくないが、70年代に会議に大きなペチャンコのリュックを背負ってきて中から大学ノート1冊を取り出し、会議の机に座る風体も構わぬ様子は微笑ましかった。 彼はこれまで発電ダムの現地調査や検査の際にこのリュックを背負って活躍したのであろうと想像していた。 ある日、例によって秋山さんは木曽福島町に出かけ、地質調査をさせてもらえるよう交渉をしに行ったようである。 しかし、その日の話し合いは早く終わってしまい仕方なく帰ろうとして木曽福島駅に来たようだ。 こんなに早く名古屋に帰っても仕方がないと思い、ふと「ひらめいた」のは、この上流地域は如何なっているのだろうかと思ったようである。 そこで名古屋行きとは反対に長野方面行の電車に乗って、藪原で下車して木祖村の役場に行ったそうである。 木祖村では当時の助役さんに会って、「木曽福島の黒川でダム建設のための調査を行いたいと申し入れたが、反対されて難しい」と言う話をしながら、「何処か良い場所はないでしょうか。」と話をしたら、直ぐに「味噌川は如何ですか。」と言われたそうである。  これまで数年にわたり利水対策協議会で木曽川水系の多くの河川のダム地点について議論してきたが、味噌川については電力会社のこれまでの調査の中にも含まれていなかったし、話題にも上がっていなかった。 そして、「何にその水を使うのですか。」と聞かれたので「愛知県、名古屋市の水道です。」と答えると「明治時代まで尾張藩から木祖村の山を維持管理していくために毎年一万石を貰っていた。名古屋市は親類のようなものだ。」と言われたようだ。  秋山さんは翌日私の所にみえて、「木祖村は名古屋市さんには大変好意を持っているようだから、今度一緒に行ってもらえないか。」と言われたのである。 その後、秋山さんと共に木祖村に調査のお願いにいったところ、今後、下流地域とも交流していきたい等の要望などもあったが、地質調査などダム調査に気持ち良く受け入れてもらった。 ダム建設地区には家屋もなく調査も順調に進んで、その結果に基づき国の水資源開発計画に組み入れられ、洪水調節、環境保全、新規利水、発電の役目を持つ、有効貯水量5,500万㎥の容量を持つダムが建設されたのである。 発電については、ダム容量は持たないが、利水で水を放流する時のみ発電したいとの長野県企業庁の要望を受けたものである。 ダム完成後、ダムは奥木曽湖と命名され、周辺は景勝地として整備され、この湖を一周するハーフマラソンコースも日本陸上連盟の公認コースとなっている。また、湖面ではカヌーの競技も行われている。 名古屋市の上下水道局とは6月の水道週間に鍋屋上野浄水場で行われる「なごや水フェスタ」で木祖村が特産品を販売したり、「木曽川さんありがとう」の行事に参加すると共に、上下水道局の職員が木祖村で行われる水源林保全体験研修に参加するなど交流を深めている。 平成29年12月、第8回木曽三川流域連携シンポジウムが名古屋国際センターで行われた際、現在の木祖村唐澤村長にお会いしたので、味噌川ダムが建設された経緯についてお話した。 村長さんは、高校時代に黒川ダムの反対運動があったことは知ってみえたが、それが味噌川ダムの建設につながっていたと言う事は知らなかったようだ。 「秋山さんは今如何されていますか。」と尋ねられたが、私も彼が退職してからお会いした事はない。 ただ、あの時、秋山さんが上流に何かあるとひらめかないで名古屋に帰っていたら、味噌川ダムは出来ていなかったと思う。 秋山さんは、出世欲もなく、いつもダムの仕事に精魂を傾けているような人だった。                     おわり                         栗田資夫  水道事業者にとって、安定的に原水を確保する事は需要に応じた給水を確実にするための最大の使命である。
 しかしながら、水道百年の歴史の中でその危機を迎えたことがしばしばあり、これを振り返ることも先人たちの努力に報いる事であろう。

名古屋水道取水口塔位置図
名古屋水道取水口位置図

初期の犬山取水口
初期の犬山取水口

【鍋屋上野浄水場系】
 大正3年、給水開始をした鍋屋上野浄水場系では、犬山城の直下に築造された犬山取水口(現在不使用)から原水を取水していた。

現在の第2取水口
現在の第2取水口

 当初は犬山から鍋屋上野浄水場まで自然流下で送水しており、犬山取水口での木曽川の水位は鍋屋上野浄水場まで流下させるのに十分な水位であった。また、給水量も急速な伸びはなく安定的に取水できていたのである。
 しかしながら、大正13年になり、木曽川に大井ダムが建設された。ダムからは電力の需要に応じて水を放流したため、河川の水位はダムの放流により40㎝~60㎝(宮田用水史)変化したようだ。このため、農業団体から農業用水の取水が困難になったとして反対運動が起きていた。
 当然、本市水道としても取水位が急激に変化したのであれば影響を受けていたはずであり、昭和3年に第4期拡張事業計画を作成した時、取水場の現況を次のように述べている。(名古屋市水道百年史)
 ア、取水場上流の水質悪化
 犬山地方の発展により、下水汚水は合瀬川悪水と合流して、取水場から約100m上流において木曽川本流に入り、原水の水質を著しく汚染しつつあった。
 イ、木曽川の流れの変化  水力発電所の建設などにより、木曽川本流の水深を変化させるだけでなく、流心の移動を招き、取水場前面の寄洲が徐々に隆起下向して取水口の閉塞が危惧される状態であった。
(第1回取水口位置変更)
 このような状況を踏まえて、第4期事業においては犬山城の下にある創設期の取水口から約1,400m上流の左岸の犬山市官林地内に、取水口(現在の第2取水口)を建設することにし、人口200万人に対する所要水量毎秒3.62㎥を取り入れるに十分な施設としたのである。

現在の第1取水口
現在の第1取水口

 このようにして新取水口では安定的に取水できていたが、この取水口でも、年々水位低下が起こっていた。昭和25年から昭和31年までの7年間に68㎝も水位が低下しており、鍋屋上野浄水場での実際の着水量は1日当たり3万㎥も減少していたのである。
 名古屋市水道100年史では「上流にダムが建設されたことにより土砂の流出が減少して益々河床を低下させていた。」と書かれている。当該取水口地点の河川は岩礁で形成され、取水口前面、河川の中央付近の下流側に巨大な岩礁があり、河川の水位を押し上げていた良好な取水地点であったが、気が付いてみると、巨大な岩礁はなくなっていたのである。
 これは、長年の度重なる洪水によって次第に削られていったとも考えられるが、当時囁かれていたのは、木曽川の遊船が安全就航のため、木曽川の岩礁を爆破しており、その際、取水口前面の岩礁も爆破されたためだと言われていたが確証はない。
(第2回取水口位置変更)
 この頃、農業用水は同様に水位低下によって取水が困難になってきたこともあり、更に愛知用水事業の木曽川上流での取水に対し反発していたため、これに対して農林省が犬山頭首工の建設を計画し、名古屋市水道もこれに参加するよう要請されていた。

犬山頭首工
犬山頭首工

 しかし、その事業を待っていると取水不可能になる恐れがあったため名古屋市独自で新たに取水口を建設することにしたのである。
 この新しい取水口(現在の第1取水口)は、更に1200m上流の犬山市継鹿尾地内に建設されることになり、昭和32年8月から、延長1145mの隧道を突貫工事で施工して昭和33年6月28日午後3時に通水を完了させた。
 この工事により、危機に瀕していたこの年も給水制限をすることなく最大給水量を確保することが出来たのである。
 その後、昭和41年には農林省により犬山頭首工が完成し、取水口の水位は安定することになり、更に昭和51年から岩屋ダムからの水源を取水するため、官林地内の取水口を愛知県の尾張水道と共同で改築した。このため、将来にわたって大渇水がない限り必要かつ十分な原水を確保出来ることとなったのである。

朝日取水口
朝日取水口

【大治浄水場系】
 大治浄水場系では、昭和14年に第5期拡張事業として、中島郡朝日村に取水口(朝日取水口)が建設されることになった。木曽川は内務省の所管であるので取水口の建設と共に河川の低水工事も内務省名古屋土木出張所に委託して工事が行われた。

粗朶沈床
粗朶沈床(クリックすると参照元に行きます)

 低水工事とは、低水路(通常水の流れている箇所)において、就航や利水のための取水が円滑に行われるようにするための工事である。
 朝日取水口付近では、澪筋が右岸や左岸に蛇行しないよう、河川を浚渫して導流堤を上下流4kmにわたり施工したようである。現在、新幹線の木曽川鉄橋から朝日取水口の方を見ると川の中に川に並行して雑木が生えているがその名残であろう。
 木曽川はこの辺りでも、ダムの影響で上流からの土砂の補給が減少し、更に、戦後復興期に大量の砂が採集されたため、年々河床低下による水位低下が生じていた。そして、昭和40年代には取水に支障が生ずる恐れが出てきたため、沈砂池に常時排砂出来るよう排砂設備を設置して水位低下に備えていた。また、昭和43年に第2ポンプ所、昭和44年と46年には第1ポンプ所のポンプのサクション管をポンプ井底に限界まで延ばす工事を行った。
 しかしながら、水位低下は止まらないため、河川の縦横断の測量を行ったところ取水口の下流100m位の所から急に河床が深くなっており、次第に取水口に迫ってくる恐れがあることが分かった。
 この深い澪筋が取水口に達すると取水不能となるので、この箇所に粗朶沈床(束ねた小枝と玉石を使い河底が洗掘されないようにする河川根固工法の一つ)を施工して澪筋が取水口に近づかないように工事をすることにした。

木曽川大堰
木曽川大堰

 当時、朝日取水口では、既得の水利権では取水量が不足していたため、毎年下流の河川利用者の承諾を得ながら、暫定水利権で凌いでいた時代であった。このため、工事を建設省に申請したが、取水口付近で工事を行うと、下流の河川利用者が名古屋市は取水量を増加するのではないかとして、反対運動でもされる恐れがあるとして許可されなかった。
 しかし、実際に権利のある水利権量も取水できなくなることを説明し、何度も建設省の係官の現地視察を受け、最終的には昭和15年頃施工した低水工事の補修工事として施工することを認められたのである。
 その後、朝日取水口は昭和58年に木曽川総合用水事業による木曽川大堰の完成により、水位は安定し取水不能になる恐れはなくなった。
 このように給水開始以来、幾度となく取水量を確保出来ない恐れが生じてきたが、先人たちの先見性と努力によって安定的に取水出来たものと思っている。
(栗田資夫)

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