片樋(かたひ)まんぼ   いなべ市大安町片樋

三重県の鈴鹿山脈東麓に「まんぼ」と呼ばれる200年以上も前の農業用水地下水路が現存しています。

片樋まんぼ位置図
片樋まんぼ

「まんぼ」とは水田に用水を引くために掘られた地下トンネルのことをいい、古い鉱山用語で鉱山の穴、坑道のことを表す「まぶ(間府)」が変化したものといわれます。地区によっていろいろな漢字が当てられていますが片樋地区では「間風」の字が当てられています。
鈴鹿山麓は全国的には見てもまんぼが集中的している地域であり、山麓を中心に約200本が存在していたとの報告があります。

片樋まんぼ
まんぼ分布図
しかし、その後大規模な灌漑事業がすすめられ用水路が整備されるようになり、次第に使われなくなり埋め立てられました。

片樋まんぼ位置図
片樋まんぼ位置図
片樋まんぼ案内図

片樋のまんぼは規模が大きく現在も使われている点で大変珍しいものになっております。
取材班は現地に足を運び、いなべ市郷土資料館に勤務のまんぼに詳しい松本覚さんに案内していただき取材しました。
『いなべ市大安町片樋地区は三方を員弁川、青川、源太川に囲まれているが、大半の耕作地が河川よりも高台にあり、古来、農業用水の確保に苦労をかさねてきた。
江戸時代に入り水量確保の必要に迫られて考え出されたのが、地表から3~7メートル下を素掘りでトンネル式に横穴を掘り、宮山の湧き水を集めて農業用水に利用する方法であった。これをまんぼと呼んだ。

当時の姿をとどめる立坑
当時の姿をとどめる立坑

まんぼは高さ約1.2メートル、幅約1メートルの横穴で、掘り出した土砂や石を出すための竪穴が30~40メートル間隔で掘られる。

現在の中間立坑
現在の中間立坑

このような掘削技術を農民は持ち合わせていないことから近隣にあった銅を採掘する治田鉱山の鉱夫を雇うなどして技術を学んだと推察される。
工事費用は庄屋の冨永太郎左衛門が私財を投じ、明和の末期(1770年頃)に着手したが、慣れない作業から落盤が相次ぐなど難航した。当初はわずかな水しか流れず、用水と呼べるものではなかった。安永4年(1775)7月にようやく完成を見る。
しかし安政の大地震(1855)で被害を受け、水の出が悪くなってしまう。文久2年(1862)、時の庄屋の二井藤吉郎が修復と延長工事をおこない、再び十分な水が供給されるようになった。
2回の工事で総延長は約1キロメートルに及びまんぼの水が新田を潤し、約80石の増産になった。』(資料から抜粋)
片樋地区のまんぼは現在でも約8ヘクタールの水田の農業用水として利用されています。

まんぼの用水路
まんぼの用水路

建設に多大な貢献をした2人の庄屋の功績と建設の苦労を後世に伝えようと地区内には「庄屋墓地」が整備され、「間風顕彰之碑」が建立されています。

間風顕彰之碑
間風顕彰之碑

さらに毎年7月1日に近い日曜日には「まんぼ祭」が執り行われ、大神宮の宮司や区長、農業関係者らが参列し、先人の偉業をたたえるとともに水利の安全を祈願しています。
また毎年大寒の頃に堆積した土砂などを排出する「まんぼ浚え」をおこなって維持管理に努めているとのことです。 片樋まんぼ中央口からは、地中の水路を見ることができました。

まんぼ内部(水路)
まんぼ内部(水路)

こんな狭いところに人が入って手作業でトンネルを掘ったのかと、水を求めるこの地区の人達の執念を垣間見ることができました。冬期で水量が少ないとのことですが、水深20センチほどの澄んだ水が流れていました。
片樋地区のまんぼは、時代とともに地下水位の変動や安全面から用水路としての形を少しずつ変えていくことはやむを得ないことですが、先人たちの水を得るための知恵と汗の結晶である貴重な文化遺産を残す努力はこれからも続けていっていただきたいと強く思いました。
昼の休憩時間に渡ってまで丁寧にご案内いただいた松本さんには、心からお礼を申し上げます。

戻る