鈴のくれた雨

二村山地蔵堂
二村山山頂付近地蔵堂

 慶長6年(1601)、徳川家康が東海道を制定するまでの京と鎌倉を結ぶ幹線道路は鎌倉街道と呼ばれて、東海道より北側を通っております。
 街道には63か所の宿駅がつくられ、「熱田」から「鳴海」へ、そして豊明市にある二村山の峠を越えて「両村」(沓掛)に出て、「八橋」、「矢作」を通って鎌倉に至りました。

鎌倉街道
二村山に現存する鎌倉街道

 二村山は標高72メートルの丘陵ですが、鎌倉街道の名勝地で、昭和の初め頃まで伊勢湾の船を眺めることができたそうです。
 平安時代の在原業平、源義経、鎌倉時代の西行法師、阿仏尼などもこの二村山を通ったそうです。 源頼朝も建久元年(1190)10月、初めての上洛の折にこの地を通り、「よそに見し をささが上の白露を たもとにかくる二村の山」と詠んでおり、続古今和歌集に残っています。
 ちなみに伊勢物語には在原業平が東下りの折、両村駅の宿屋の軒先にわら沓が懸けてある風情をおもしろく思い、「沓掛」と名付けたとあり、この地名が今日まで残されております。

地蔵堂内部
地蔵堂内部

 現在は周辺が宅地化によって姿を大きく変えていますが、二村山はかっての雰囲気をしのばせる貴重な場所となっています。
 山頂付近には地蔵堂があり、御本尊は向かって左の地蔵尊で、俗に峠地蔵と呼ばれています。その背に大同2年(804)と刻まれ、現在の姿は首が無く、胴体のみが残されています(小さな石が胴の上に首代わりに載せられているようです)。
 伝承として、熊坂長範という大盗賊(平安時代末)がこの山に隠れ、ある時旅人の首を切ったと思ったところこの地蔵尊の首だった、ここから身代わり地蔵の別名ができたと言われています。
 地蔵堂の中央立像は元文3年(1738)の刻、右の座像は明和3年(1766)の刻があります。

豊明市八幡社 豊明市八幡社

 二村山のふもとに八幡社(創立:正保3年(1646))があり、水にまつわる不思議な話が伝わっています。
 寛政7年(1795)から日照りが実に5年間続き、田畑がすっかりひび割れて大凶作に見舞われてしまいました。
 寛政11年も5月から8月にかけて雨が一滴も降らなかったため、村中の人が交替で八幡社にこもり3日3晩太鼓や笛で雨乞いをしました。
 3日目の晩のことです。遠くの空から白髪の老人が白鳥に乗って飛んできて、社の上でとまりました。老人は雨乞いをしている人たちに大きな声で言いました。
 「この日照りは9月まで続く。だが、この社に来て雨乞いをするとは感心なことだ。この鈴に清水を少し汲んで来て私に渡しなさい。」
 それではと、濁池の東側から北の方角へ行った場所に湧いている清水を見つけ出し、鈴に水を汲んで戻り老人に渡しました。「よく持ってきてくれた。この水を種として雨を降らせよう。私は八幡大菩薩である。」というと西の空へと飛んでいきました。

八幡社
八幡社本堂

 ここで、皆夢から覚めました。雨乞いをしていた6人全員はいつのまにか眠ってしまったのです。互いに見た夢を語り合ったところ全く同じ夢でした。
 その日の朝、静かに雨がふりだしました。その雨は3日3晩降り続きました。
 八幡社の由緒説明碑には雨を降らしてもらったお礼に氏子たちが本殿の雨覆の建立をしたとありました。
 伝説に出てきた濁池は豊明市と名古屋市の境にある池で、池の北側は緑区の鳴海町大清水です。伝説の清水が地名の由来となっているのでしょうか。


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豊明市二村山への地図

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