寝覚の里 名古屋市緑区大高町

氷上姉子神社
氷上姉子神社
氷上姉子神社
氷上姉子神社

・氷上姉子神社(ひかみあねごじんじゃ)
 名古屋市緑区大高町氷上山(現在は火上山)に熱田神宮の摂社(注1)である氷上姉子神社が鎮座しております。
 昔から「お氷上さん」と親しく呼ばれ、尾張氏の祖神として広く人々の信仰を集めています。
 氷上姉子神社は古代尾張の開拓神であった天火明命(あめのほあかりのみこと)の子孫で、当時の尾張国造(くにのみやつこ)(注2)として火上の地を本拠地としていた乎止与命(おとよのみこと)の館跡(現在の火上山山頂近くの元宮の地)に宮簀媛命(みやすひめのみこと)をご祭神として仲哀天皇4年(195年)に創建されたと伝わります。
 その後、持統天皇4年(690年)に火上山のふもとの現在の地に遷座になり、幾度も造営がされ、現在の本殿は明治26年(1893年)熱田神宮の別宮八剣宮を移築したものです。

元宮
元宮

 旧社地には元宮が鎭祭され、宮簀媛命の館跡としてまた神社の創祀を語る地として大切にされています。
(注1)本社に付属し本社に縁故の深い神を祀った神社の称。本社と末社の間に位し、本社の境内にあるものと境外にあるものとがある。
(注2)古代の世襲の地方官

・宮簀媛命と草薙の剣
 宮簀媛命は乎止与命の娘で、古代随一の英雄とたたえられた日本武尊が東国平定からの帰途、この地に留まられた際に結婚され、尊の亡き後は神剣草薙の剣を奉斎守護してやがて熱田神宮創祠への道を開きました。

大高斎田
大高斎田

 熱田神宮のご神体である草薙の剣は神話によると、神代の昔、天照大神(あまてらすおおかみ)の弟の素戔嗚尊(すさのおのみこと)が出雲国(島根県)の簸川(ひのかわ)の上流において八岐大蛇(やまたのおろち)を退治して土地の人々の難儀を救われた時、その大蛇の尾から霊威みなぎる尊い剣(天叢雲剣:あめのむらくものつるぎ)を獲らえたと伝えられています。
この剣は天照大神に奉られて、その後伊勢神宮に奉斎されていました。
 景行天皇の御代(71年〜130年?)、皇子日本武尊は東国平定に先立って伊勢神宮に参拝し、斎王(いつきのみこ 注3)の倭姫命(やまとひめのみこと)からこの神剣を授かり、駿河国で賊の奸計により危機に立たされた際、この神剣で四方の草を薙ぎ払い、逆に迎え火を放って無事に難をのがれました。この時からこの神剣は草薙神剣と名付けられるようになりました。
 東国平定の大業をおえた日本武尊は信濃から尾張へ帰還し、遠征の疲れをいやすため火上の里の館にとどまって、そこで宮簀媛命と結ばれました。
 ところが休息する間もなく、近江国伊吹山に賊ありと聞き、その賊徒平定のため神剣を媛にあずけて、急ぎ彼の地に赴きましたが、病を得て伊勢国能褒野(のぼの 三重県亀山市能褒野町)でなくなってしまいました。
 <嬢女(おとめ)の床の辺に
 わが置きし剣の太刀 その太刀 はや>

あゆち潟
あゆち潟

 深く神剣のことを心に留められた尊のこの最後の絶唱には宮簀媛命への思いが溢れています。
ここにおいて宮簀媛命は、遺された草薙神剣の霊威を畏敬され、床を設け、これに安置して奉仕に努められましたが、その後、あゆちの熱田の地に社を建て(注4)、これに神剣をお移しして、奉仕の生涯をささげられました。
(注3)いつきのみこ:即位の初め、伊勢神宮や賀茂神社に奉仕した未婚の内親王または女王
(注4)熱田神宮の建立は景行天皇43年(113年)と伝えられる

・大高斎田
 火上山のふもとには神に供える米を栽培する斎田が造られております。
 昭和7年(1932年)に設定され以来、翌年から6月には田植祭がおこなわれ地元の関係者たちが揃いの衣装で田植え歌に合わせて田舞を奉納し田植えを行います。
9月28日には豊かな実りを神に感謝しお米を取り入れる抜穂祭が行われています。収穫米は熱田神宮の年間の祭典用神饌として本宮以下各社に供えられます。
 取材した10月初めは既に抜穂祭は済んでおりましたがまだ一面黄金色の稲穂がたわわに実っておりました。

・寝覚の里
 昔は名古屋市の南部はあゆち潟といわれる海が広がっており、その北側の台地に熱田神宮が位置し、氷上姉子神社は海を挟んだ南の対岸に位置しておりました。
 日本武尊が東征の帰路、甲斐国坂折宮で宮簀媛命を恋い偲んで詠まれたと伝わる歌、
<あゆち潟 火上姉子は 我来むと
 床去るらむや あはれ姉子を>
が「尾張国熱田大神宮縁起」に記されており、姉子神社の名の由来とされております。

寝覚めの石碑
寝覚めの石碑

 火上山のふもと、大高町砂畑には「寝覚の里」の石碑があります。また、隣接する東海市名和町に「寝覚」という地名が残っております。
 これは明治43年(1910年)10月、熱田神宮神官宮司、角田忠行氏が建立したもので日本武尊と宮簀媛命の故事にまつわる文面が刻まれております。
 「大高里なるこの寝覚めの地名は千八百年の昔、倭武天皇の火上の行在所に坐せる時、朝な朝なに海潮の波音に寝覚し給ひし方なる故にかくいい効はせるものならむ故この地名を万代に伝え・・・・(以下判読が困難ですので省略)」
(参考)倭武天皇(やまとたけるのすめらみこと)とは「常陸国風土記」に表記された日本武尊の別称



 日本武尊と宮簀媛命が火上の地で出会い、夫婦の契りを結び、短い新婚時代を過ごした丘の上の館。あゆち潟の岸辺に寄せては返す波音で毎朝目覚める。落ち着いた静かな生活を過ごしたことが偲ばれます。
 今は当時をしのぶよすがも無く海は埋め立てられて高速道路が近くを通り車の行き交う音だけが響くようになっておりますが、火上山の杜の中に入り宮簀媛命の館跡に建つ元宮に参拝すると名古屋市内にいることは忘れて神話の世界に浸ることができました。

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