庄内川は天の川 星神社と多奈波太神社

星神社
星神社

 庄内川を挟んで、北側の西区上小田井一丁目(旧・小田井村)に星神社が、南側の北区金城四丁目(旧・田幡村)に多奈波太神社があります。
 主祭神は星神社が大名持命(大国主命)で牽牛星(彦星)と織女星(織姫)が合祀されています。多奈波太神社は天之棚機姫命(あまのたなばたひめのみこと=織女)です。ともに毎年旧暦の7月7日には例祭がおこなわれ、千年以上の歴史を持つ行事となっています。

星神社
星神社

 この地の神社は、昔から大雨が降ると庄内川が氾濫したため川の神様の怒りを鎮めようと建立されたものと考えられております。
 それがいつの頃からか中国から七夕の話が伝わり、天の川を庄内川、牽牛星を小田井の若者、織女星を田幡の娘にみたててふたつの神社を結ぶ伝説がうまれました。そして七夕祭りが盛大におこなわれるようになったようです。
「昔々、庄内川に橋が無く、渡し舟で両岸を繋いでいたころのこと。
 当時北側の岸は小田井の里、南側の岸は田幡の里がありました。
 小田井の里には村で評判の働き者の若者がおりました。
 ある年の盆のこと、小田井の若者たちが田幡の里の盆踊りに招かれて庄内川を渡りました。田幡の里では賑やかな踊りの輪の中でひときわ上手に踊る娘がおり、若者は娘を一目見て好きになり、娘も一緒に踊るうちに若者を気に入るようになりました。その後二人は逢瀬を重ね将来を誓い合う仲になりました。
 ある晩、若者は父親にその娘を嫁にしたいと相談し、許しをもらうと一刻も早く娘に知らせようと川に向かいました。夜は舟が出ないので若者は川を泳いで渡ろうとしましたが4,5日前からの大雨で流れの速くなっていた川に飲み込まれてしまいました。
 次の日、村中で若者を探しましたが見つからず、3日後に見つかりました。それを知った娘は若者の野辺送りを済ませた7日後に庄内川に身を投げてしまいました。
 その後、村人たちは冬の空に新しく光る二つの星をみて「若者と娘が星になったのだろう」と語りあいました。

 中国の伝説とは異なるこの七夕伝説はたびたび氾濫を繰り返す庄内川による悲しい出来事が生みだしたものなのでしょう。

星神社
星神社

*星神社
 弘安3年(1280年)戦火により社殿が焼失したため創建年代は不明ですが、延喜式神名帳に「山田郡 坂庭神社」と記されているのが現在の星神社です。
 七夕祭りをおこなうようになってから牽牛星と織女星を一緒に祀り、ロマンのある「星神社」に名称が変わったと想像されます。
 暦應4年(1341年)右近中将藤原朝臣実秋が神社を再建しました。
 主祭神の大名持命(おおなもちのみこと)は縁結びの神様であり、神社も「縁結びと夫婦円満の社」として知られています。社務所には「千年の時を超えて語り継がれる七夕伝説ゆかりの社・星神社で叶える神前結婚式」と挙式案内のパンフが置いてありました。
 さほど広くはない神社ですが立派なムクノキが歴史を感じさせる、現在も氏子の信仰が篤い雰囲気を感じさせる神社でした。

多奈波太神社
多奈波太神社

*多奈波太神社
 平安時代の延喜式神名帳に「山田郡 多奈波太神社」と記されている格式の高い神社です。戦国時代に織田信長による焼き打ちで社殿、伝書ともに焼失したため創建年代は不明です。
 名古屋城築城の際、替地によって田幡村に遷座したと伝わっています。当時は七夕の森と呼ばれる大変広い敷地があったようです。
寛永年間(1752年頃)に尾張藩によって新たに社殿が建てられました。旧暦7月7日には藩主がおとずれ、その日ばかりは一般民衆も垣内参拝が許されたといい、当時の様子は「尾張名所図会」などに多くの記録が残っています。
 名古屋城天守閣が失われた昭和20年の名古屋大空襲で社殿を焼失し昭和39年(1964年)に再建されました。そして平成10年には修復工事がおこなわれて現在の姿になっています。
 現在は住宅に囲まれて境内も広くもなくて当時の面影はありませんが、入口の鳥居横に笹竹が植えられていて七夕の雰囲気を醸し出しているのが印象的でした。

多奈波太神社の笹竹
多奈波太神社の笹竹

 神社の名称は「多奈波太神社」と万葉仮名で表記されていますが、現在の所在地、「金城四丁目」に隣接して「田幡一,二丁目」があり、以前は「七夕町」という地名もあり、それぞれ関連性がありそうなので調べてみました。また「七夕」をなぜ「たなばた」と読むのかも不思議です。
 「田幡」という地名の語源は「田之端」という地名を「たなばた」と呼んでおり、後に「田幡」と書くようになったとのことです。(「棚機」が語源という説もあります)  多奈波太神社は尾張名所図会では「田幡村」にあると記されていますが、その後田幡村の一部、神社のある場所は「七夕町」と変更しています(昭和27年から57年まで)。
さらに現在では町名変更により「金城4丁目」に変わっています。
【参考文献:「尾張国地名考」、「愛知県の地名」】  なお多奈波太神社を遷座させる際、「多奈波太」と「田幡」の読みが同一なことから田幡村を選定したともいわれています。

多奈波太神社
多奈波太神社

   「七夕」とは中国五節句(人日:じんじつ、上巳:じょうし、端午:たんご、七夕:しちせき、重陽:ちょうよう)の一つで、7月7日の夜、天の川に隔てられた彦星と織姫が年に一度だけ会うという伝説にちなむ年中行事です。
 七夕の行事は中国から伝来して奈良時代に広まりました。伝わった頃は日本でも「しちせき」と呼ばれていました。
 その後、中国の織女星(織姫)と日本古来の機織りの神様である棚機津女(天之棚機姫命)を同じ織姫として七夕祭りを行い、その行事を「たなばた」と言うようになったとのことです。
 この語源は、「棚機津女(たなばたつめ)」名の下の部分を略して「たなばた」としたといわれています。(「津」は「の」の意味) ここでいう「棚機」とは織物を織る機械のことを差し、棚がついていたのでこう呼ばれました。乙女が着物を織って棚に供え神様を迎えて豊作を祈り、人々の穢れを払う行事に使われていました。

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