名古屋市瑞穂区 あゆち水と藤原師長

あゆち水

 平安時代までは熱田神宮から新瑞橋、野並を結ぶ線辺りに海岸線があり、貝塚、古墳などの遺跡が点在しています。
 瑞穂陸上競技場のある瑞穂公園の中にも大曲輪(おおぐるわ)貝塚、瑞穂古墳などの遺跡がありますが、今では当時を偲ぶよすがもありません。
 しかし、公園の東側隅に「あゆち水」と書かれた大きな石碑と石で囲った小さな古い井戸があり、ここが「愛知」の語源となったといわれております。また、この辺りの町名が師長町となっており歴史を感じさせますので、その由来について取材しました。

あゆち水の石碑
あゆち水の石碑

 普段は人の通ることのないような公園と住宅地の間の雑木林の中に、高さ3メートルほどの石碑がひっそりと立っています。
 石碑には「あゆち水」と刻まれ、その下に
  小治田(おはりた)の
  年魚道(あゆち)の水を
  間なくぞ人は汲むといふ
  時じくぞ人は飲むといふ
  汲む人の間なきがごと
  我妹子に我が恋ふらくは
  やむときもなし   (万葉集巻13)
と刻まれています。
 現代風に記すと、「あゆちの水を絶え間なく人が汲み、飲むように私の恋の思いも絶え間ない」という意味です。

井戸
井戸

 「あゆ」とは「湧き出る」を意味する古語で湧水が豊富な土地を「あゆち」と呼ばれていたようで、万葉集巻3の
  桜田へ
  鶴(たず)鳴き渡る
  年魚市潟(あゆちがた)
  潮干にけらし
  鶴鳴き渡る
という歌が有名ですが、こちらは南区の桜田八幡社に歌碑があります。
 愛知県のホームページでは「あいち」は、この 「年魚市潟」に由来するといわれ、「あゆち」が「あいち」に転じたものと記しております。
 広辞苑では『「あゆち」は【年魚市・吾湯市】尾張国の古地名。今「愛知」と書く。』と記されております。
 この井戸が万葉集の時代からあったわけではなく石の井桁は江戸時代に作られたものとも言われておりますが、いずれにしても万葉集の時代には瑞穂公園の南は海であり、この辺りは豊富な水が湧き出していて旅人たちの喉を潤したことは間違いないと考えられます。
 石碑と井戸のある師長町は、太政大臣藤原師長にちなんで昭和7年に町名が施行されています。
 治承3年(1179)後鳥羽上皇と平清盛の衝突により上皇は鳥羽殿に幽閉され、近臣であった藤原師長は尾張国へ配流され井戸田に住みました。翌4年上皇の幽閉が解かれると師長も赦され京に帰りました。

図絵
師長公謫居の図

 師長は琵琶や琴に長じていて井戸田でも琵琶を弾いて過ごしたと伝わります。尾張名所図会の「師長公謫居(たっきょ)の図」では海辺の東屋で琵琶を傍らに置いてくつろぐ姿が描かれております。
(注) 謫居:辺鄙の地に配流されていること、またそのすまい(広辞苑)

 井戸田にある竜泉庵(薬師寺塔頭の一つ、後の龍泉寺(りょうせんじ))の庭を好みしばしば訪れたといいます。この伝承を受けて現在も師長公木像が本堂に祀られています。

琵琶峯の石標
琵琶峯の石標

 この間の師長に関する数々の伝説が残っています。
 その中に次のようなものがあります。
 「井戸田の長、横江某の娘が師長帰洛の期に及んで別れを深く惜しみ土器野里(かわらけのさと、現西枇杷島町)まで慕って来たので、守り本尊の薬師如来と白菊の琵琶を形見に与えたが、彼女は悲嘆の末、そばの池に身を沈めた。」
 これは今の枇杷島の由来とされています。
 また「師長がつれづれに井戸田より東の大地にて月を賞で、琵琶を弾じた。このあたりを琵琶ヶ峯という」
 あゆち水のある雑木林の片隅に「琵琶峯」と刻んだ小さな石標があります。琵琶ヶ峯の丘陵は開発されて姿を消しましたがその名残でしょうか。
 建久3年(1192)師長は55年の生涯を閉じました。法名を「妙音院」と称しました。
 師長にちなんだ町名として師長町(昭和7年施行)、妙音通り(昭和20年施行)があります。
 大きな石碑の裏には「昭和11年4月 横江信之建立」と刻んでありました。
 横江某の子孫の方が、この一帯が師長町と名付けられたのを機に娘をしのぶために石碑を建立し、あゆち水にちなんだ万葉集の恋歌を刻んだのかもしれないなと静かな雰囲気の中、勝手に想像をめぐらせました。

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あゆち水への地図

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